2010年7月5日月曜日

1960.7.3(日) 初めての合ハイ

明大前で待っていたら、池田 次いで 高橋 がやって来た。 九時二十八分の東八王寺行きに乗り、美作、山田、江田、大山 等と合流し、大分揺られて百草園に着く。 百草園は小高い丘の上に在った。 我々が着いた時は、まだ双方ともに10人くらいしか来ていなかったが、程なく他の連中も到着した。
(注・・・疲れたので続きはきょうのところはここまでにしておく・・・7月3日)

(注・・・日が経ちすぎたので、頑張って続きを書いてしまおう・・・7月10日)
始めはどうもぎこちなかったが、いろいろゲームが始まるに及んで次第に和やかになってきた。 僕が在学中に自殺寸前にまで追い詰められるなんて誰が書いたのか知らないが旨いことを書いたものだ。 職業は万年学生(これもぴたり)。 恋愛の相手は5歳くらい年下の女の子、これはまあ良いとして、結婚の相手は無し、一生独身とはちとひどい。 死の直前の状態は何だったかどうしても思い出せない。 しかし何といっても MR さんに対して僕が読み上げたやつは傑作だった。 「僕に恋愛します。」 まったく山辺も愉快なことを書いたものである。 幾つかゲームをやってから外に出てフォークダンスをやった。 なにしろダンスなどというものは何年もやったことがなかったから少々心配だったが始まってみるとみんな五十歩百歩なので大いに安心した・・・・。 最後のサードマンでは MR さんと組んでしまい、暫くのあいだ相手をさせて貰ったが、どうにも皮肉な話だった。 MR さんは NM さんにじつによく似ていた。


(注: 東京女子大の多分文学部かどこかとの合同ハイキングで百草園に行ったときの顛末である。 参議院議長になった江田五月も、静岡県知事になった石川嘉延も、水産庁長官になった東久雄も、西武鉄道社長になった小柳皓正も、ほとんどのクラスメートが参加しているが、最高裁判事になった堀籠幸男甲南大学長になった吉沢英成の顔が見当たらないのが残念と言えば残念である。 山辺というのはついこの間まで日本製薬工業協会の専務理事だった山辺日出男のことである。 NM さんというのは予備校時代同じクラスで一緒だった女子学生であるが大学では顔を合わせたことがないから東大には入らなかったのかも知れない。 桐生の生家の隣は料亭、そのまた隣はダンスホールという環境で育ったが、それまでどちらかと言うとダンスという言葉自体嫌いでほとんどやったことがなかった。 じっさい70歳になる今日まで六本木のクラブでも全国各地の盛り場での接待でも専らダンスは忌避し続けてきた。)

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