2011年8月7日日曜日

1961.6.24(土) "愚図" の効用?

今夜のクラシック

ト調メヌエット ベートーベン
愛の夢     リスト
ワルツ嬰ハ短調   ショパン
マドンナの宝石 間奏曲  ヴォルフ=フェラーリ
オクラホマ から  おお美わしき朝  ロジャース


地学が終わったあと、一わたり見回してみたら見慣れない服装の女の子がいたような気がしたが、・・・・それが Pだった。 協組から裏を抜けて北寮の売店へ行ったら、水飲場のところで友達と話しているのが見えた。 ・・・サークル連絡板の所でポスターを見ていたら Pが傘をぶらぶら振りながら・・・

帰りにまた会えるかと思って期待していたが、テントのところで石川と話をしている間に帰ってしまったらしい。 だが彼女が地学をやめてしまったのでなかった事が判っただけでも大きな収穫だった。 帰りがけに教務で 5D の女子の名前を調べたが、可能性のあるのは結局 4人であった。 つまり、KK、FM、KM、MM である。 このうちの quelle であるか・・・。

昼休みにアーケードのところでまた MKさんに会った。 それもすぐ目の前でである。 一瞬どきっとしたが、暫くするとまた P のことで頭がいっぱいになってしまった。 実際、こんなに簡単に MKさんから心が離れてしまうとは・・・・・。 実際以上に彼女を美化し理想化していたのが、今こうして Pが現れるに及んでその錯覚であったことを露呈したということであろうか。
・・・・・
また一つには、僕の彼女達に対する関心というものが結局、生涯の伴侶たるべき人としてのものでなく、いずれは別れなければならない青年時代の思い出の人としてのそれであることも、こうした不安定な気持ちを助長するのに与っているのであろう。

(注1) 協組だの売店だののことをくどくど引合いに出すのは当時の構内の様子を思い出したいからである。
(注2) 石川というのは後に静岡県知事として郷里の国際化のために奮闘し、自らの地位と刺し違えて富士山静岡空港を開港させた石川嘉延である。 そのとき彼と何を話していたのかは記憶がない。
(注3) この頃から Pへの関心が MKさんへのそれを頭の隅に追いやり始めた様子が日記の文面からも読み取れる。この傾向は本郷へ進学してからも続いたが、ときおり、御茶ノ水からのスクールバスで MKさんと一緒になったときなど、とても平静では居られなかったことを思えば、最後に2人のどちらとも口一つ利くことなく別れる日まで、心は揺れ動いていたのだろう。

一方、彼女達は、その間にもはっきり進むべき道を決めつつあったらしいことは、私もうすうす感じており、敢えて独りよがりの思い出に甘んずることに決心しつつあった。 今から思えばさしたる障害があったわけではないが、当時の私にとって一人の女性を選ぶことは修行僧が出家を決心する時のような重大事に思えたのである。 しかし、何事もなく別れたからこそ、50年後の今、こうして後ろめたさを感じることなくノスタルジーに浸れると思えば "愚図" の効用も捨てたものではなかったなと思っている。
(注4) 教務で Pの可能性のある女子学生を KK、FM、KM、MM の 4人に絞ったとあるが、当時は今のようにプライバシーがどうとか言う時代ではなく、全クラスの履修科目リストが閲覧できるようになっていた。 実際、友人達と同じ科目をとりたいときとか、また何かの行事の日程を決める時とか、結構、重宝していた。 勿論、私のように動機不純な輩も少なくなかったろうが、それで問題が生じたという話は聞かない。  

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