1961.6.26(月) 近くのH嬢より遠くのお茶大生?
十一時ごろ登校して、図書館へ行ったところ、杉山、大竹と会い、話しているうちに杉山が小さい辞書が欲しいからと言って協組へでかけたので、暫くしてから僕も行ってみることにした。 11番の東側の辺りまで行ったとき、向うから杉山が買ったばかりの辞書を片手に戻ってきたので、また一緒に図書館へ引揚げようとして振り向くと、すぐ後からやって来た H とばったり行き会ってしまった。
服装が変わっていたので、始め僕は別人かと思ったが顔を見ると確かに H であった。 それはともかく、問題はそのときの彼女の態度である。 何か当惑したような・・と言うより虚を突かれて狼狽したようなあの素振りが何も意味しないなどと考えるのは全く困難であり・・・
なるほど、こういう態度を何度も見ては、杉山があんなことを言うのも無理はないと思った。
・・・・・
いずれにせよ、彼こそは我クラスにおける一珍人物たる資格に欠けるところはないであろう。
(注: 後に、これは、残念ながら彼に対する好意の証拠ではなく、むしろ彼の一見、自信満々の態度に対する困惑に近かったことが判明したが、当時の我々には、知る由もなかった。)
4限は黒川らと共にサボり、美作、武藤と4人でお茶大の女の子達との相談に出かけた。 渋谷でコーヒーを飲みながら 1時間ほど駄弁った後、新宿中央口へ出かけた。 30分ほど待たされた後一緒になり、またコーヒーやソーダを飲みながら話をした。
結局、もっと資料を集めなくてはと、鈴木、長沼の両嬢&黒川、武藤の4人と共に三越前の長野県出張所まで行ったが、閉店の 6時にわずかに遅れて目的を達せず、武藤と別れて 4人で東京駅まで歩き、そこの総合案内所で漸く調べることが出来た。
後は鈴木さんから美作のほうへ連絡してコースを選定して貰うことにして別れた。 鈴木さんは毎日2時間もかかる茅ヶ崎から通っているとのことであった。
東京駅へ行く途中、長沼さんが桐生に親戚がいると言ったことから野球の話までとび出し、全く世の中は狭いものだと思った。
(注1) お茶大との合ハイの記事は、昨年9月25日の朝日朝刊 "サザエさんを探して" に掲載された。 ここに挙げた4人と私の顔も映っているが、どれが誰かは言うわけにいかない・・・?
取材の依頼メールが来たのは8月末だったが、体調が悪く、2週間ほど経ってから気がついたときは原稿締め切り直前だったため電話取材で済ませた。 その時はまだ、自分が幹事役の一人だったことも忘れていたので、不得要領の結果に終わっているが、記者は、この写真に惚れ込んで是非載せたいと言うので、私が全責任を負うということで承諾した。
あれから間もなく 1年になるが、誰からも文句は来ていない。 多分、だれも読んでいないからだろうと思っていたら、10年前に前立腺癌で全摘手術を受けたあとずっと経過観察を受けている執刀医から、"あれは関口さんですか" と言われてびっくりした。 まだまだ ネットより新聞や TV の影響力の方が圧倒的に大きいことを痛感した。 facebook 時代になってこれが変わるかどうか、予断は出来ない。
(注2) 鈴木さんから 2時間かけて通学していると聞いて驚嘆したが、後年、私自身が選りによって茅ヶ崎に住み、3時間かけて千葉市にある東京情報大学まで通勤することになるとは・・・ 隔世の感ありと言うしかない。
(注3) 桐生と野球の話が出たのは、昭和30年(1955年)の春の甲子園で浪商との決勝戦まで勝ち進み、2対2で延長戦に縺れ込んだ末、敬遠で出塁した浪商坂崎の生還を許して3対2で惜敗したばかりだったからだ。
当時、桐生高校への入学が決まっていた私達は、連日登校し、講堂で NHK 取材班の報道に興奮していた。 準優勝旗を持って桐生駅頭に立った今泉-田辺バッテリー以下、TVで すでに顔を知っていた先輩達を尊敬の目で見守ったものだ。 入学後、修学旅行の日程を急遽変更して甲子園にかけつけ、最後まで応援して帰ってきた 3年生 300人余との対面式では、私が新入生を代表して挨拶することになった。
"・・・私達は、桐生と甲子園に遠く離れていましたが、共に桐高ナインを応援することで、同じ桐高生としての誇りを感じていました・・・"
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