2011年8月8日月曜日

1961.7.4(火) 時には学業のことも

起きた時はもう 8 時、到底間に合わないと思ったのでゆっくり仕度し、登校したのが丁度十時、遂に地学を一回さぼってしまった。
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昼休みに図書館から馬場と一緒に教務の所へ来た時、前の出口から(本館の) H、少し遅れて P が出てくるのにあった。 白のワンピースを着ていた。
MK さんには 3度会った。一度目は二限の前に 300番の方へ行くところ、二度目は図書館前、3度目は本館の正面の階段下・・・
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4限は、小柳との約束もあり出席した。 4人位しか出ていなかった。 O さんの姿も見えなかった。駅で待っていると全く思いがけないことに P がいつもよく一緒にいる男と矢内原門の方から来るのが見えた。今日は 3限までの筈なのにどうしたことであろう。 
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志望届の集計が発表されたが案外低いので安心した。
それにしても教養学科の科学史コースというのは一寸興味がある。 いつか内容を調べておいて夏休みにでもよく相談しよう。

(注1) O さんというのは、MK さんと同じく駿台時代の同級生(?)である。 P と一緒の男というのは誰だか卒業するまでわからなかった。 この日記では女子学生の誰彼のことばかり出てくるが彼女らが誰と一緒にいようと嫉妬の感情が沸いたことは殆ど無かった。

日記の記述行数を見る限り、①女子学生の誰彼の消息が 3割、②クラスメートの誰彼とどうこうしたというのが 2割、③中高時代の同級生のことが 1割、④下宿先での散歩やラジオ番組などが 1割、⑤家族のことが 1割、⑥学業関係が 1割、⑦その他1割・・・ といった感じで、とてもまともな学生生活を送っていたとは思えないが、実際に費やした時間と労力は、①②③の合計、④⑤の合計、⑥⑦の合計が、夫々とんとんだったのではなかったかと思う。

要するに学問と教養のために使った時間は、せいぜい三分の一位だったことになる。 もし⑥⑦の割合が二分の一以上だったら、私の HP で畏友と謳っている連中と肩を並べていたかも知れない。

(注2) 僕が仏語を最後まで続けられたのは小柳が居たからだろう。 語学には元々興味があり、一時は、露語、伊語、西語、羅語(希語も挑戦してみたが一月も経たないうちにやめてしまった。未だに辞書も持っていないし読み方もわからない。)まで首を突っ込んだが、前の二つは歌を原語で歌える程度。 後の二つは、発音の仕方と字引の引き方を覚えた程度で終わってしまった。 それでも後年、三流の大学教授として、大石先生に言わせれば論文の名に値しない論文もどきの雑文を書くのには結構役立っている。

(注3) "志望届の集計が案外低いので安心した" というのがどういう意味だったか覚えていないが、おそらく好きな所へ行こうと思えばいけたということだろう。
教養学科の科学史コースには本当に興味があった。 行かなかったのは、学者になれるという自信がなかったことと、これ以上親に負担を掛けて遊んでいる余裕が無かったからである。

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