1962.5.24(木) 同時代に生きていることの不思議 ‐ 縁 ‐
下宿を出たのが9時頃、農政学は諦めることにした。2限は休講なので、黒川と山田の将棋を見物したり、図書館で大竹と一緒に少し教科書を読んだりして過ごした。
12時少し前に大竹と別れ、思い切ってもう一度〇〇まで行くことにした。一昨日の夜見た彼女の家を明るい日の下ではっきり見届けたかったのだ。
それはやはり彼女の住むに相応しい感じの良い家だった・・・・・というより彼女の家であるという事実が、僕にその全てを好ましいものと感じさせたのだと言ったほうが良いかも知れない。
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帰る途中も擦れ違う電車の一つ一つに、或いは彼女が乗っているのではないかと思って、何も見えるはずがないのに振り返って見ずには居られない気持ちだった。
一昨日と今日と生まれて以来2度しか来たことのない〇〇の町が、何だかずっと昔から知っている町のように懐かしい忘れられないものとなってしまった。
通りを歩いていても、この道もあの人が毎日通った道なのかと思うと、あの人が子供の頃から毎日歩いたその同じ土の上を今こうして歩いているのかと思うと、何か言葉にならない感慨が胸に突き上げてくるのを覚えた。
僕が全然知らない所で、僕の全然知らない人たちの中で、あの人が生まれ育ち成人したということが、また彼女を産み育てた人たちが居り、彼女を子供の頃から知り一緒に遊んだ人たちが居たということが、不思議でならなかった。
(注: 人は誰でも一度は世界が違って見えるような体験をするとは、前から観念的には承知していたが、私にとっては、この日がまさにそれだった。
かのスティーブンソンが、マラッカ海峡航行中に、吉田松陰の密航失敗と投獄の報に接し、このような英雄と同時代に生きていることを誇りに思うと書き残したという逸話を読んだことが有る。
話は異なるが、いずれも 『同時代に生きていることの不思議-縁-』 を実感した瞬間であることでは共通する体験だったと今でも思っている。)
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