1961.7.17(月) 出発当日のドタバタ
十時ごろ学校へ着いたがまだ誰も来ていない。 十一時近くなって、まず東が現れ、追々若槻、奥原の両者も姿を見せた。 学割を貰ってから四人で渋谷の喫茶に入りコーヒーを飲んでからツーリストビューローへ行った。 学割がなくなったと思って大騒ぎしたが、ポケットにあったので安心した。 その後またどっさり買い込み、また荷物の割り当てが増えてしまった。
荻窪へ帰ってから大急ぎで仕度し、叔父さんのところへ着いたのが6時ごろ。 ところがリュックだと思っていたのがナップザックだったとのことで、とても荷物が入りきらず、仕方ないので堺にリュックを上野まで持ってきて貰おうとしたところ、電話を掛けた時はもう出かけた後。 遂にピンチに陥り、叔父さんのスクーターで俵町の地下鉄乗り場までつれていってもらい、渋谷に急行。 飛ぶようにして北寮にかけつけ、あちこち探した末リュックを借り、急いで駅に戻ってみると停電で電車は停まったまま。 泣きっ面に蜂とはこのことである。 そのうちに動き出したが、神泉の駅でまた停まってしまった。 業を煮やしてとびだし、渋谷まで走った時の苦しさは一寸忘れられない。
国電で錦糸町まで行き、バスで横川橋まで乗り継ぎ、ようやく叔父さんの所へ戻ったのが8時25分頃。 一風呂(行水と言った方が良いかも知れない)浴びてまたスクーターに乗せてもらい、上野に着いたのは九時丁度であった。(杉山以外は皆来ていた)
時間があったので、杉山と寿司を買いがてら西郷さんの銅像を見たりして、戻ってきた時は皆席についていた。 くじを引いて席を割り当られた結果は、堺と島田、長沼両嬢と一緒ということだった。 アイスオレンジを食べたりして愉快に話をした。
(注1) たった一つのリュックのためにこれだけの苦労を強いられたということは、我が家の経済的余裕のなさというより、そのくらい当時の我々にとって物が貴重だったというに尽きる。
(注2) 叔父はラバウルから生還した後、ずっと墨田区本所横川橋というところに住んでいたので上野発の列車で出発する前進基地としては最適だった。 近くの太平町には王貞治の生家(太平軒といったと思う)があって、皆ワンさんと言って親しくつきあっていた。 いずれも押上げと錦糸町を結ぶ大通りの途中にあったが、今どうなっているかは知らない。
(注3) 上野駅は、啄木ではないが、私にとっても故郷への玄関駅で、西郷さんなど小学生の頃から見慣れていたが、関西出身の杉山にとっては、見て置きたいものの一つだったのだろう。
(注4) この合ハイがきっかけで、後年二組の夫妻が誕生することになるが、この時の席割りが影響したかどうかは知らない。
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