2011年8月16日火曜日

1961.7.18(火) 上野発夜行列車で一睡もせず

昨夜は一晩中遂に一睡もしなかった。 左側で美作、東と小山さんが話しているのが耳についたというか気になったせいもあるが、それよりもとにかく気が張っていて眠気が起こらなかったと言うべきであろう。 篠ノ井で下車、丸子まで二十円也の電車に乗り、バスで美ヶ原の麓まで行った。
途中、霧が深く、ときには雨かと思われるほどだったのでがっかりしたが、行くほどに晴れ間が見え深い谷なども見下ろせるようになったので嬉しかった。 途中下車して、思い出の丘で朝食を摂ったが、どうしても朝と言う気がしなかった。
美しの塔を経て山本小屋へ向かう途中、霧が深くなって道に迷いかけた一幕もあったが、無事小屋へ辿りつくことが出来た。 直ちに昼食の支度となったが、我々は専ら火起こし掛りで、炊事は一切女性に任せっきり、まことに申し訳ないようであった。
(8.28 疲れた・・・暫く休憩。 )

食後、大挙して散策に出かけたが、途中、バテた者が出たのでいろいろ相談した結果、二手に分かれて行動することになり、僕は、美作、若槻、黒川、高橋、大村、武藤らとともにバテ組に加わることにした。 折から空もからりと晴れ渡り、高原の気分を満喫することができた。
帰って一休みした後、夕食の仕度にかかったが牧牛がふらふらと何頭も迷い込んできたのには肝を冷やした。 おまけに場所柄もわきまえず交尾など始めたのにはぞっとした。 そのうちに水は止まるし全く恨めしい牛どもであった。

食後のキャンプファイアーの楽しかったことは全く筆舌に尽くせない。 恐らく生涯の思い出となる事であろう。 それにしても消灯になったとき、レインコートを被ったままバンガローから顔を出した黒川の姿の愉快だったことは、この夜の楽しさに更に一興を添えるものであった。

皆、小屋に入ってからも気持ちの治まらぬ連中(僕もその一人だった)が、十人ほどでまた上の牧草地まで登り、星を眺めながら暫く話をしたが、そのうち星がどんどん消えていくので驚いて懐中電灯をかざすと霧がさあーっと寄せてくるではないか。 気味の悪いことと言ったらなかった。 皆、泡を食って逃げ帰ったものである。 床に着いてからまた暫くくだけた話をしているうちに皆いつのまにか眠ってしまったらしい。

(注: 思えば随分強行軍だったようだ。 1年前、記憶を頼りにHPを書いた時、夜霧の恐ろしかったことは覚えていたが、牧牛の傍若無人な行為や黒川の珍妙だったらしい姿、それにもまして感激したと言うキャンプファイアーのことまですっかり忘れていた。 こういうことを思い出せるというのも日記と言うものの効用の一つだろう。 それにしても、美ヶ原高原の歌 "仰ぎ見る丘美ヶ原" を誰かのリードで歌ったことに全く言及がないのはさびしい。 多分、それほどパッとしないメロディーだったからだろう。 )

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1 件のコメント:

2017年7月18日 13:32 に投稿, Blogger 関口益照 さんは書きました...

2011年1月21日金曜日
"合ハイ" の思い出
昨年の9月、新聞記者から取材の依頼があったのを機に、改めて社会現象としての合ハイの意義を考えてみた。

合ハイの登場した背景

1、男女出会いの場としての性格
①見合いの持つ社会的承認機能(氏素性の確認)
②ダンスパーティーの持つロマンチックで新鮮なイメージ(①については?で見られていた。)
の両者を併せ持つ健全な新しい風俗として期待された?
しかし、いずれの機能も中途半端だったため、多くのいわゆる良家の子女や有為の青年を結びつける力がなかった。
要するに、単に男女が出会う場は、いくらでもあるが、結婚相手となりうる男女が出会う仕組みは、人為的に条件を整える必要があると言うことだ。 その意味で、かつての "お見合い" に変わる強力な仕組みは未だに登場していない。
これが成立するためには、差別化されたグループとその内部でのプライバシー公開が必須であり、これをクリアーしない限り安定した婚姻率の改善は不可能と言えよう。

2、同世代の共通体験の場としての性格
江田五月君が安保闘争に参加した動機の一つ もそれだった。(と昨年1月、新聞インタビューで答えている。) 私が参加した動機も同じ。 クラスの大半が3回の合ハイの何れかに参加したのもそうだったに違いない。
・・・主だった連中が参加するようだから行ってみるのもわるくないか!

「同世代の共通体験」 の一端を担いたい・・・
その気持ちが多くの若者の心を捉えたのだろう。。

 

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