2011年9月4日日曜日

1961.7.19(水) 合ハイ二日目・・・快晴の美ヶ原

十時十五分、東の声で目が覚めたまま、起床まで遂に眠れなかった。 また、眠くもなかった。
(8.29 もう暫く休憩)

朝食を済ませ出発したのが九時。 一斑が3、4分早く出、美しの塔で落ち合うことになった。 途中、写真を撮ったりしているうち、二班に追いつかれてしまったので、それから少し馬力をかけ、僕はとくに少し無理をしてみたかったのでどんどん先に進み、皆より5分も早く美しの塔へついてしまった。
皆一緒になってから、また、堺と僕が先陣を受けてバス乗り場まできてみると、既に相当の混雑。 結局、美鈴湖まで立ちん坊だった。 美鈴湖では杉山と一緒にボートに乗り、それでも何とか漕げるようになった。 一汗掻いた後、湖畔で立ったまま簡単な昼食をとり、また満員のバスに揺られ、電車で松本駅に着いたのが3時ごろ。 ここで、木崎湖へ行く連中(東、若槻、奥原と、鈴木、小山、奥原、益田の諸嬢)と別れた。

残ったもの同志、余った時間でタクシーに分乗し松本城の見物に出かけた。 復興天守閣だそうであるが、大阪城などと違い往時そのままの形で復旧されていたので面白かった。

西川さんの所に残る原田、永本、宮部の諸嬢に送られ、松本駅を離れたのが4時30分であった。
車内では、丁度、僕と武藤に黒田、前川の両嬢が同席し、思いがけず話が弾み、心を開いた話が出来たことは望外の喜びだった。 甲府でぼやぼやしていて駅弁を買い損なってしまったが、ページワンなどで愉快に過ごしているうちに空腹も忘れてしまった。 新宿駅で堺にリュックを渡した後、黒川、美作らと別れ、中央口を出たところで四人で夕食をとり、名残を惜しんだ後、7番ホームで3人と別れ帰宅した。 アパート着11時。

(注: 今読み返して見ても随分克明に書いてあると思うが、これは小学校の時以来、修学旅行のつど、何時もやっていた習慣である。 小学校6年次の江ノ島、鎌倉2泊旅行の時は、B4原稿用紙10枚の絵入り旅行記、高校3年次の京都、奈良3泊、車中2泊の関西旅行では、40枚の旅行記を一晩で書き上げた記憶がある。 これは、私が筆まめだったからではなく、それほど当時の我々にとって泊りがけの旅が、感激的な経験だったからである。
文中の個々のエピソードについては断片的な記憶しか残っていない。 美鈴湖から乗ったバスの終点が何処だったのか思い出せないが、そこから 「浅間鉄道」 というローカル電車に乗って松本に着いたような気がする。 因みに松本市の 「浅間温泉」 と言う所は、奇しくも、後年、信州大学に入った長男の貴裕が、教養課程の2年間、下宿していた町である。)

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