2012年3月31日土曜日

1962.2.22(木) 忘れえぬ人々①・・文科一類六組の級友達 そして・・・

嶺さんの試験が終わって出てくると、本館東南の階段の所で黒川、杉山を始め、5人ばかり集まって待っていた。約束の答案が出来てないので、いささか気が引けたが、これからすぐ書上げ、杉山に copy を作って貰い、黒川には明朝9時に荻窪駅で渡すことにして了承してもらった。

19日に隣の席で勉強していた文研の人が、どうしようかと言った風情で本館東側に佇んでいるのに会った。

12時10分頃、答案が出来たので、早速、杉山に写してもらい2時に彼と別れた。 4時ごろ塚原に喫煙室で会った。 見せてくれと言うので彼にも見せて参考にしてもらったが、僕の方は少しも勉強する気になれない。 校内をぶらぶらしているうちに、はっとした。・・・ 1年生の試験(特に文二)は、明日の漢文を残して全部終わってしまったのだ。

それは確かに一つの解放であったかも知れない。 しかし、何処かぽっかりと穴があいてしまったような堪えがたい寂しさを感ぜざるを得なかった。 丁度、2年前の3月、入試最終日の理科を終えて、6時のバスでお茶の水の灯を目に焼き付けながら東京を去った時の気持ち、まさにあの時のような気持ちだった。
もう2度と会うことはあるまい、
さようなら、Azarea いつまでも幸せに、さようなら。

(注: 嶺先生の科目が何だったか、よく覚えていないがクラスでは私しか受けていなかった所を見ると選択科目の ”微積分学" だったと思う。 こういう科目は趣味で採っていたので、大抵、優だった。
級友達が当てにしていた答案が何だったか全く覚えていない。 待っていた連中が皆法学部組だったのを見ると、多分、経済政策かなにかの論文だったのだろう。 だとすれば、反マルクス論で可を貰った私と同じ悲惨な結果に終わったはずだ。

19日の人とは、月曜日に図書館で私の隣の席で勉強していた女子学生で、暫く前から、何となく私の近くに席を採っていた人のことだが、文研というのが何のことかいまだに思い出せない。 多分教養学部の3年生だったのではないかと思う。 19日の日記には、彼女が隣に居たおかげで、勉強が捗ったと書いてあるから、私も悪い気はしていなかったらしい。

Azalea とは、P のことだと言うことは既に何度か書いているので、これ以上の説明は控えたい。)

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