1962.4.1(日) 久我山に越した田村家・・・2年ぶりの再会
午後、下宿を出、白金台町から三光町のほうへ廻り、恵比寿駅から国電で渋谷へ出た。 学校へ行ってみようかと思ったが、行ったところで何になるのかと思うと馬鹿らしくなって、そのまま電車に乗って新宿で降りた。・・・・
とにかく、下宿へ戻る気がしないので、荻窪まで行き、駅前の菓子屋で "もなか" を買い、立教女学院行きのバスで田村さんのところへ行ってみた。 幸い、在宅しておられ、そのうちに "テイジ" 君も帰ってきて非常に楽しくお話した。 夕食までご馳走になってしまい、近頃に無く愉快な一日だった。
テイジ君が大阪に出張していた時知り合った一つ年上の女性に見込まれてしまい、文字通り "生きるの死ぬの" といった手紙が来たりして、非常に心配されたことなど奥さんから伺ったが、テイジ君ももうそんな年になったのかと感慨無量であった。
(注: 新しい下宿先の石橋さんの家は、権之助坂が6号線に交差する手前の目黒川左岸に面した中流家庭の2階建てだったが、既にご主人に先立たれた夫人が、何人かの下宿人に部屋を貸して暮らしていた。 私は、その中でも一番狭い玄関脇の3畳一間を借りていたので、隣室の音が筒抜けで、始めのうちは落ち着いて篭っていられなかった。
田村さんと言うのは、浪人時代の2年間、西荻駅徒歩一分のところに下宿していた時の大家さんで、ご夫妻共に足利出身と言うこともあって、随分お世話になった方である。 "テイジ" 君はその一人息子で飛行機整備士になるのだといって航空専門学校に通っていたが、大阪での件は、無事卒業してからのことだろうと思う。 残念ながら、私は終に "生きるの死ぬの" といった手紙を貰うことも無く、駒場を後にすることになった。)
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