1962.8.16(木)~24(金) 大石ゼミ合宿・・妙高高原池の平寮
0時12分高崎発準急で発つ。
田口駅で田井野に声をかけられる。
高崎駅で牧野を見かけたという。
次の各駅で来たが、話によると高崎駅の待合室ではすぐ横に居たらしい。
よくもまあ、お互いに気が付かなかったものだ。
2日目だったか3日目だったが忘れたが、開湯40周年記念花火大会があり、思わぬ拾い物をした。寮の前に縁台を出して見物したが、まるで我々のために打ち上げてくれているようなものだった。
宿帳を皆で見ていたら・・・(略)
ゼミはかなり順調で13章まで終ってしまった。(もっとも最後の2章はとうとう判らなくなってしまったが)
先生もかなり我々を認めてくれたと思う。
池でボートに乗ったら2~3日で真っ黒に日焼けし、顔や腕の皮が剥けてしまった。
寮の食事では足りないので、毎日のようにカヤバ荘に食べに行った。いつもヤキソバばかり食べていたので、すっかり覚えられてしまい、最後の日には新たに注文して用意してくれていたのには恐縮した。本当に皆良い人たちばかりで気持ちが良かった。
22日の夜、妙高に登るつもりだったが、雨が降ってきたのでやめ、皆と一緒に帰ることにした。(越智と片山は、勇敢にも出かけていった。)
車中、寮歌集の新解釈などして遊び、高崎で皆と別れた。全く、思いで深い旅だった。
(注: 往復ともに高崎が登場するのは、牧野と私が、帰省先の高碕、桐生から参加したからだ。合宿は4年生と合同だったはずだが、日記には一行も記述がない。水上、間藤の両秀才が参加していた筈だが、お二人とも我々には恐れ多くて、遊び仲間ではなかった所為だろう。認めてくれた云々は、先生の褒め上手のなせる業であり、我々の出来が良かったわけではない。池というのは、「いもり池」のことである。翌年の夏もここで3年生と一緒に合宿したが、HPの集合写真は其の時のものである。)