2011年4月27日水曜日

1961.4.25(火) 新学期の初登校?

・・・幸先の良い一日であった。 矢内原口を入ったとき、一寸振り向いた横顔は、・・・昼休みにプールの所で友達と話している・・・これは真正面からだったが、まったく感じの良い雰囲気だった。

(注: いずれも MK さんのことばかりで、授業や他の仲間のことは何も書いてない! 一旦、結晶作用が始まるともう如何にも止まらないというのはこういうことか。 いま私が読んでも呆れるほどだから、私以外の読者には馬鹿々々しくてとてもじゃないが、付き合っていられないだろう。 それでも書く理由は、"矢内原門" と言うのが毎日登下校するときの通用門・・・門などではなく、半間ほどのいわば勝手口・・・だったのを思い出して懐かしかったからだ。)


現役受験時の記念写真

当時の正門の様子がわかる。 矢内原門は右手の植え込みの更に右寄りにあったが、この写真には写っていない。

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2011年4月23日土曜日

1961.4.14(金) 今夜はモーツアルト

モーツアルト  ピアノ協奏曲22番 変ホ長調

(注: まだ新学期の授業は始まっていないらしい。 )

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2011年4月20日水曜日

1961.4.7(金) 早大文学部の女子学生たち

前からの約束に従って、一緒に早稲田まで発表を見に行った。 待っている間に、はからずも彼の森田女史なる人物に面会の栄を得ることができ愉快であった。・・・

(注: 誰と一緒に行ったのかと言えば、例の金子安江さんである。 何の発表を見に行ったのかと言えば、同じ文学部の中の最難関学科?であったらしい仏文学科への転科試験の結果である。 合否がどうだったか、また実際に転科したのかどうかも覚えていない。 しかし、彼女がアテネフランセに通っていて相当な実力に達していたのは確かだ。 それは、私も当時、親友だった小柳皓正君と一緒に3語の仏語にかなり力を入れており、サルトルやラディゲの短編くらいは読みこなす所まで行っていたのでよくわかる。 森田女史というのは、金子さんからたびたびうわさを聞いていた大物女子学生で飛び切りの美人でもあった。 いずれにしても、きわめて断片的な記憶しかないが、早大のキャンパスには何度か出入りし、ときには天麩羅学生として、例の女子大生亡国論で有名だった暉峻康隆教授の講義に紛れ込んだりしていたので、政経学部を受験して落ちた割には、悪印象はない。 )

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