2011年12月23日金曜日

1961.10.30(月) 母の手術・・・全身麻酔の衝撃的印象

病院へ着いたのは十時頃だったので、もう手術は始まっていた。 父も来ていて翻訳者との一件について話してくれた。 まったく妙としか言うほかない出会いである。

1時間の予定だったそうだが、10時から始まった手術がかなり手間どり、1時近くなって漸く終わった。(休憩)
(再開・・・12/26)担架で送られてきた母の顔を見たとき思わずぎょっとした。 全く死人のようなとはあれを言うのだろうか。 今更のように麻酔の物凄さに仰天した。 普通の寝顔を予期していた目には、あの微動だにもしない蒼白の顔はあまりにも大きな衝撃であった。 改めて手術と言うものの恐ろしさを骨身に徹して知らされた気がする。 ・・・・・・(休憩)
(再開・・・2012/1/9)
1時15分頃、東京タワーから渋谷行きのバスで学校へ向かった。 着いたのは2時5分位であった。
アーケードを経て900番へ行く途中、600番の方から来た P 達に行き合った。 今日は例の男は居らず、他の女の子達と一緒で何か賑やかに話し合っていた。
900番に本を置いて協組のテントへ行って見ると、 W 達が鉢巻をしていた。 また賃上げ要求であろうか。 戻ってくる途中30番脇ので出口から P が今度は一人で出てくるところに出会った。 彼女と一対一で出会うのは久し振りだが、やはり、・・・・・
何とかして彼女に自然に近づく方法はないものか・・・・・

(注: 前半は、母が子宮切除手術を終えて手術室から手術台に横たわったまま運ばれてきた時の様子である。 とても生きているとは思われなかった。 手術が終わるのを待っている間に、父から "バイオリン奇譚" の翻訳者が見つかったことを聞いていたはずだが、全く記憶がない。 この分では、前回の日記、"1961.10.26(木) 授業の合間の気晴らし、忘れていた恩人の記録" の注で書いた片山氏とは関係のない別のルートだったのかも知れない.
後半は、学校へ駆けつけた後の顛末であるが、相変わらず女性のことしか書いてない。 全ては "縁" だという一種の運命感をもっていたので、こちらから行動する気は殆ど無く、只管めぐり合わせを期待していたが、それにしても未練がましいことこの上ない。)

ラベル:

2011年12月12日月曜日

1961.10.26(木) 授業の合間の気晴らし、忘れていた恩人の記録

8時に学校へついたのは良いが、経済史は休講、馬鹿な話だった。 2限は関先生の独語、104番で聴講カードを出すだけの授業を終わり、出しなにふと机の上を見ると何か厚い本のケースらしきものが目に付いたので引き出した所、まことに物凄い標題であったから、捨てるに忍びず高橋らに見せると、彼らも腹を捩らんばかりに大笑いし、何とか旨い利用法を考えようと言うことになった。 一緒に協組で食事をしながらあれこれ思案した結果、書籍部の棚に突っ込んでおき、誰が引き抜くか見ていようということにした。
(休憩・・・12/12)
(再開・・・12/20)
早速、出かけてうまくあいた所へ収めはしたが、なかなか面白いことが起こりそうもないので、そのまま退散してしまった。 果たしてどうなったことやら、多少気が咎める話ではある。
所在無いまま、一同図書館前で雑談していると、中から P が例の男の外にもう一人従えて出て来た。 矢内原門の方へ行ったが、恐らく休講なので渋谷へでも遊びに行くのだろう。
3限は、地学教室で嶺さんの授業を聞いたが、まったくあのひそひそ声には呆れてものも言えなかった。
3語の始まる前、協組の方から本館の方へ来る途中、 P 達が弥生通りを北寮の方へやってくるのに出会った。 もう最近は彼女からは何もそれを感じられるような態度は看取できなくなってしまった。 やはり僕の自惚れだったのかも知れない。 ともかくあまり見苦しい態度はとらないようにしよう。
ところで、ここ数日来、いつでも好きな時に Wit. の姿が見られるのが嬉しい。 が、それにしても何と清楚かつ可憐な人であろう。 ああいう人を見ていると・・・
3語の小林先生は非常に感じの良い人で僕の好きなタイプの方だった。 毎週、3~4人ずつ当ることになった。 今学期こそしっかりやって仏語をものにしてやろう。

帰りにまた病院へ回ってみたが、村井先生が居ないのでまだよく判らないとのことだった。
片山さんのご主人らしい人に会ったが、成る程、大分若そうであった。
何より嬉しいことは、「バイオリン奇譚」 の翻訳者がみつかったということであり、
(休憩・・・12/20) 
それが、しかも最近までアメリカに居てジャーナリズム関係の仕事をしており、文章を書いたり講演をしたりしていた人だというのである。 ・・・ この調子ですべて旨くいって貰いたいものだ。

(注: 学校での日常は、相変わらず授業半分、女性への憧れ半分と言う趣だったが、女性達への関心は、薄れたと言うより、徐々に憧れから、淡い感傷ないし夢に変わりつつあったような気がする。
物凄い標題というのが何であったかどうしても思い出せない。 腹を捩るほどの代物だったとすれば、高橋か誰かが覚えているかも知れない。

病院とは母が子宮筋腫の手術のため入院していた慈恵医大病院のこと、村井先生は肝硬変で予後検診を続けていた以前からの主治医である。
また、片山さんのご主人とは二人部屋での同室友達で、『1961.10.25(水)もう一人の親友 小西靖生君』 のところで注記した片山秀子さんのご主人のことである。 日記には書いてないがジャパンタイムスに勤めておられたそうだから、亡父の遺稿『ヴァイオリン奇譚』(A Mysterious Episode of Violin)の翻訳者を紹介してくれたのはこの人だったに違いない。私より兄の方がずっと親しくお世話になっていたようだから、今度会えたら聞いてみよう。)

ラベル: