2012年3月31日土曜日

1962.2.23(金) 忘れえぬ人々②・・文科一類六組の級友達 そして・・・

9時に、荻窪駅の中央階段のところで黒川に会い、約束どおり答案を渡した。 高橋にも頼まれたとのことで、彼に学校で渡す事になっているのであろう。 4時20分に東大前で返すとの事だった。

そのまま東西に別れ、学校へ言っては見たものの、全く本を読む気になれない。 彼女に会えないということがこれほど寂しいものだとは思いもよらなかった。会わないで居ればきっと忘れてしまうだろうと思ったのだが、こうして彼女のいない学校に来てみると、全てが昨日までとはすっかり変わってしまったような味気なさを感じた。・・・・・
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北寮売店でパンを食べてから、本館の方へ行く途中、学生部掲示板のところに H さんを見た。 そのまま図書館へ行き、10分ほどして教務へ行ったところ、中に彼女の姿も見えた。 窓際で本をカバンにしまってから中に入ろうと思って振り向くと、彼女がドアを背にしてこちらを向いて立っていた。 こんなに真近に、そして真正面から彼女を見たのは、夏休み以来、初めてだったが、・・・ 顔つきはあの頃と別に変わっては居なかった。 ・・・・・
この間、駅で見たときはひどく蒼褪めた感じだったが、今日はすっかり以前の明るさを取り戻していた。 ただ何だか非常に可憐な、殆んど痛々しいほど華奢な印象を受けた。 春の頃には決してなかったことである。 勿論、僕にはその方がずっと好ましかったが・・・・・ ともかく僕には何の関係もないことだ。
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自分にとって好ましい女性は世の中に殆んど無数に居るだろう。 そういう女性が何人か僕の前に現れた場合、そのうちの誰に最も惹かれるかと言えば、それは、最も頻繁に接触する人であろうし、また最も自分を慕ってくれる(それが錯覚であったにせよ)人にであろう。
MK さん然り、Azalea 然り、Wistalia 然り、そして若しかしたらH さんもそうだったかも知れない。

(注: 50年前の片思いのあれこれを語るのは気恥ずかしくもあり、はた迷惑な所業だと言う認識がないわけではないが、友人達が次々と他界するのを見ているうちに、当時のありのままの心の軌跡を書き残すことに後ろめたさを感じなくなってきた。 本当はもっとはっきり書きたいところだが、私と違って未だに現役の者も多く、特に女性の多くは専業主婦として終生現役で、私の死後も世間との係わりの中で生きている方が大半だろうと思うので、全て当事者以外には、個人名を特定できないよう配慮している心算である。)

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1962.2.22(木) 忘れえぬ人々①・・文科一類六組の級友達 そして・・・

嶺さんの試験が終わって出てくると、本館東南の階段の所で黒川、杉山を始め、5人ばかり集まって待っていた。約束の答案が出来てないので、いささか気が引けたが、これからすぐ書上げ、杉山に copy を作って貰い、黒川には明朝9時に荻窪駅で渡すことにして了承してもらった。

19日に隣の席で勉強していた文研の人が、どうしようかと言った風情で本館東側に佇んでいるのに会った。

12時10分頃、答案が出来たので、早速、杉山に写してもらい2時に彼と別れた。 4時ごろ塚原に喫煙室で会った。 見せてくれと言うので彼にも見せて参考にしてもらったが、僕の方は少しも勉強する気になれない。 校内をぶらぶらしているうちに、はっとした。・・・ 1年生の試験(特に文二)は、明日の漢文を残して全部終わってしまったのだ。

それは確かに一つの解放であったかも知れない。 しかし、何処かぽっかりと穴があいてしまったような堪えがたい寂しさを感ぜざるを得なかった。 丁度、2年前の3月、入試最終日の理科を終えて、6時のバスでお茶の水の灯を目に焼き付けながら東京を去った時の気持ち、まさにあの時のような気持ちだった。
もう2度と会うことはあるまい、
さようなら、Azarea いつまでも幸せに、さようなら。

(注: 嶺先生の科目が何だったか、よく覚えていないがクラスでは私しか受けていなかった所を見ると選択科目の ”微積分学" だったと思う。 こういう科目は趣味で採っていたので、大抵、優だった。
級友達が当てにしていた答案が何だったか全く覚えていない。 待っていた連中が皆法学部組だったのを見ると、多分、経済政策かなにかの論文だったのだろう。 だとすれば、反マルクス論で可を貰った私と同じ悲惨な結果に終わったはずだ。

19日の人とは、月曜日に図書館で私の隣の席で勉強していた女子学生で、暫く前から、何となく私の近くに席を採っていた人のことだが、文研というのが何のことかいまだに思い出せない。 多分教養学部の3年生だったのではないかと思う。 19日の日記には、彼女が隣に居たおかげで、勉強が捗ったと書いてあるから、私も悪い気はしていなかったらしい。

Azalea とは、P のことだと言うことは既に何度か書いているので、これ以上の説明は控えたい。)

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1962.2.21(水) 皆、焦っていた!?

10時半頃であったか、Max Wb. で疲れたので、図書館の玄関のところで息を抜いていると、"彼等" が側を通り過ぎて本館の方へ行った。
彼女は確か、"間に合わないのよ、未だ40ページ読まなきゃならないんだから。 お願いだから" と言ったような気がするのだが、何だか少し苛立ったような声の調子だった。

3時ごろから小西、稲垣と駄弁り、4時半頃ホールで間食をした。 食べ終わって話しているところへ Wistaria が入って来たが、間もなくまた出て行った。

(注: "彼等" が誰かは今更言うまい。彼らには彼らの現実があり、私には私の現実があった。 そして Wistaria にも・・・)

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1962.2.20(火) 遠縁の秀才・・・駿台の公開模試で18番!

今日の独語(杉山)もまた、仲々好調だった。全く言うことなしといった所だ。

10時半頃、小西と都電で神田へ出かけたが、目的の本が見つからないので、そのまま(彼は Geothe の Faust を買ったが)引揚げた。 途中、御茶ノ水駅の前で炒飯を奢って貰ってしまった。 まあ、暫くは借りておくことにした。
駿台を覗いたところ、荻野多平(熊谷高)とあったが、恐らくお祖母さんの話していた人だろう。 公開模試で18番とは大したものである。 帰ったら早速皆に話そう。 序にアテネ・フランセも覗いて来た。

学校へ戻ってからまず生協へ行き、松田さんが編した西洋経済史の本があったので、二人ともそれを買った。 Wistaria の感じの好さは一寸類がない。 一週間後にはもう恐らく永久に別れてしまうのかと思うと一抹の寂しさを禁じえなかった。・・・

(注: 独語に限らず、好きでやっていた科目は、殆んど優だったが、それ以外、経済・法学関係はあまりパッとしなかった。 この傾向は本郷へ進学してから一層募り、翌年の秋には忍耐の限界に達し、父当てに大学院進学を止めたいという長文の封書を出して決着することとなる。 私は今でも意に染まぬ分野を受験などすべきではないと思っている。

駿台を覗いたのは、この前帰郷した折、祖母から親戚の荻野多平という子が、優秀で東大を目指して居ると聞いていたからである。 後年、東京情報大学に転職してから、富士通研究所出身の S教授の東大伝熱工学研究室の在籍者名簿 の S教授の名の隣にその名を発見した時は、まさかと思った。
また、アテネ・フランセを覗いたのは、桐生西中の級友で早大文学部に在学していた金子安江さんが通っていたからである。

Wistaria ・・・生協の麗人・・・に対する思慕は、募る一方だったが、駒場の思い出と共に封印するしかなかった。)

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1962.2.16(木) たかが期末試験、されど期末試験

昨夜は、殆んど徹夜。 6時半ごろ終わり、30~40分眠っただけだったので、午後図書館で勉強中、無性に眠くなって困った。 5時ごろまで勉強し、寮食堂で夕飯を食べて引揚げた。

10時頃、皆と一緒に駅まで行き、黒川達に行き合って話しているとき H が来た。 ・・・・春の頃と比べるとすっかり感じが違ってしまっていた。 以前は、非常に明るい顔色をしていたように思ったが、今日はまたひどく青ざめた印象を受けた。 試験が始まったので、多少睡眠不足の気味もあるのだろう。

試験は、まあまあだったが Schlange (蛇)が判らず、珍答案が続出して仲々愉快だった。

(注: 何処の大学でもお馴染みの泥縄の期末試験風景といった所である。 Schlange を正解したものは殆んど居なかったようだ。 H さんに限らず、真面目な女子学生の中には、試験中には髪振り乱してとまでは言わなくても、形振り構わずといった青白い顔の女子学生がたくさん居た。 一度MKさんが起き抜けのような青ざめた表情で登校してきたことがある。 恐らく一睡もしていなかったのだろう。)

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2012年3月30日金曜日

1962.2.10(土) 方や雑談、方やお説教・・・

10時半頃学校へ着き、図書館へ行ってみると、席がないので喫煙室で少し勉強した。・・・・・
・・・暫くして外に出たところ、小西と木村が後から追ってきた。 昨日の如く芝生のところで話をした。 非常に熱の入った論戦になったが、結局、agree to differ に終わった。
木村と柳の下に泥鰌は居るか居ないかなどと言っているところへ、案に違わず〇〇さんを含む3人ばかりの女の子が側に来たのには全く驚いた。 しかし、何も気がつかぬ小西が、もう行こうかと言い出したので、木村には気の毒だったが、そのままお終いになってしまった。

小西と29番で4時頃まで勉強し、喫煙室で30分ばかり話をしてから渋谷へ出、・・・・ "まな" でコーヒーを飲みながら1時間ばかり話して別れた。
今日は、すっかり彼にお説教された形だった。 ともかく彼の誇りの高さと向学心は買わねばならない。 僕もこうなっては意地でも負けて入られないことになる。 気の緩みを戒めてくれるよき友人として、仮に多少、不愉快な所が有ったとしても大切にせねばなるまい。

(注: 理論経済学一途の小西が、木村と私が "柳の下の泥鰌" 談義で、〇〇さん達のことを言っていたことに気付いていなかったとは言えない。 さもなければ、渋谷の "まな" でお説教されたはずがない。 大病をしたという彼から見ると、光陰矢のごとしという格言が絵空事ではなく、女の子の話などしている時間の無駄は見ていられなかったのだろう。
私が理屈としてはそうだと思っても、彼のペースに付いていけなかったのは、私の負っていた強迫観念が "何々学" などという確立された分野で業績を挙げることでもなければ、社会的に "出世" することでもなく、周囲に受け入れられる筈のない 暗中模索の課題(Scientific Modelling of Zen Concepts) だったからだ。・・・)

2012年3月29日木曜日

1962.2.9(金) 学部決定は何時だったのだろう?

2限終了後、ホールで東と昼食を摂ってから、図書館で、高橋、大村、木村、小西、それに山田も加えて雑談した。・・・・
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雑談中、"彼等" もやって来て図書館へ入って行った。 芝生のところで話していると〇〇を含む4人ばかりの女の子が近くへ来て、アイスクリームを食べたりしていたが、その途中から来た木村がずっと神妙にしていたのは愉快だった。 30分ほどしてから皆で渋谷へ繰り出し、"さくら" で勉強会をした。 あまり捗らなかった。

皆と別れてから小西と二人で食事をし(寮食)、図書館の喫煙室で 9時少し前まで勉強した。 終わってからホールで夕食を奢って貰った。 とにかく今日は非常に愉快だった。
小西という男は確かに少し偏狭なと言ってよいような所があるにはあるが、しかし、現代の青年の殆んど全ての者が失ってしまっているある種の純粋さ、一途さ、そして卑俗なものに染まるまいとする潔癖さを持っている。 これはかけがえのないものであり、偏屈であることは喜ぶべきことではないにしても、それを失ってまで偏屈さを矯正する必要はないし、またすべきではないと思う。 彼がそれを気にしているらしいので、そう言ってやったところ大分安心したようだった。

とにかく僕自身、そういうひたむきな気持ちを失いかけて居た矢先だっただけに、大いに反省させられるところがあった。 これから良い友達になれそうである。・・・・

(注: 此処に出てくる面々のうち、東と山田は法学部、それ以外は経済学部進学組だった。この頃はもう法学部組と経済学部組の色分けははっきりしていて、幾つかの共通必修科目以外は、別行動になっていたはずだが、時々こうして一緒に雑談していたらしい。
木村が神妙にしていたのは、アイスクリームを食べていた4人の女の子の中に意中の〇〇が居たからである。 そのことは、皆、彼自身から聞いて知っていた。 こんな調子で渋谷のサテンに篭っても勉強が捗るはずがない。 雑談中、図書館に入っていった "彼等" とは、P とその相方である。

小西のことは、前にも書いたが、本郷のゼミ仲間からも偏屈振りをからかわれていた。 にも拘らず好いやつだと皆に好かれ、未だに大石会(大石ゼミ同窓会)の常連である。 彼を私の郷里に案内した時のことは、ホームページ "一期一会" に紹介している。) 

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2012年3月26日月曜日

1962.2.5(月) 私はたかが期末試験、兄は国家試験の正念場

2限終了後、高橋、木村、大村の3人と渋谷へ出、喫茶店の奥に陣取り、"Gewissen" を15頁まで片付けた。 12時半から4時半までかかったが、割りにはかどった方だと言えよう。・・・・
・・・・
帰ると、兄が来ていた。 学士試験は15日から、国家試験は28日からだそうである。
馬場君の兄さん(北大の講師との事)は、東大在学中、全学連の委員長だったそうである。
(疲れた・・・休憩 3.26 18:00)
(再開・・・3.28 19:00)
全く思いがけないことだ。 それが高校時代には右翼だったと言うのだから、まことに傑作と言うほかない。 馬場君は、今荻窪(南口)に下宿しており、時々寄るからその序でに遊びに来るとの事だった。

(注: 此処の記述はどうも良くわからない。 一字一句確かめてみたが、写し違えではない。 兄が日本歯科大学での親友を私の下宿先につれて来たことがあることは覚えているが、それなら私より 2歳年上のはずだから馬場さんと言ったはずだ。 駒場の級友に馬場君というのが居たから、或いは、彼のことだったかも知れないが、それがどういう話の成り行きで、そのときの話題になったのか皆目見当がつかない。 一つ考えられるのは、そのとき兄と一緒に来た友人と私の級友の馬場君が親戚同士だったと言うことだが・・・ 機会があったら兄に聞いてみよう。

ところで、全学連の闘士が、高校時代に右翼だったからといって別に驚くには当らない。 安保闘争にしたところで、一部の共産主義者は別として、大半の青年達は、イデオロギーではなく正義感とナショナリズムで参加していたのだから。 序でに言えば、世界中の学生運動はすべてそうだと言っても差し支えないだろう。 当時、米国のダレス元国務長官が、安保闘争を評して、"自分も学生時代に反政府デモに参加したことがある。 そんなに心配することは無い。" とコメントしていたのを思い出す。

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2012年3月24日土曜日

1962.2.4(日) 井の頭会館で 「エデンの東」 をみる。

全然勉強する気になれない。 11時頃、"Gewissen" と辞書を持って学校へ行き、、27番教室を見てから少しばかり本館前の芝生で日向ぼっこをして来た。
荻窪まで戻り、そのままバスで吉祥寺へ行き、井の頭会館で "エデンの東" (ボーイハントやキングコールの歌などもあったが、興味ないので観なかった)を観た。
ジェイムス・ディーンが、純真だが愛されぬ故に反抗的になる若者を好演していた。相手役の女優(名前は見落とした)が、仲々良い感じだった。
・・・追記: ジュリー・ハリス(37.4.15)

良い映画ではあったが、相変わらずのHappy End には、少々食い足りない所があった。 もっともその方が後味は良かったが。

(注: "Gewissen" とは、辻先生の独語で使ったシュテファン・ツヴァイクの "Ein Gewissen gegen die Gewalt" のことだろうと思うが、情けないことに忘却のかなたに去ってしまった。本棚の奥のほうに有るのはわかっているのだが、背伸びして引っ張り出す体力がない。
吉祥寺には、もう一軒、東女寄りの町外れに武蔵野館というのが有って、同じくジェームス・ディーン主演の "ジャイアンツ" を観た覚えがある。
Austin and Houston and Alamo, El Paso, Crystal City, Waco
Just like a sleeping Giant sprawling in the sun

・・・
・・・This then is Texas, Lone Star State of Texas, This then is Texas, Land I love ・・・)

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1962.2.2(金) "マドンナ" の現実・・・私との距離は、遠ざかる一方

3限の独語が終わってから、2号館前で皆と別れ、5号館の方へ行く途中、植え込みの向うに彼女の姿が見えたので、・・・・・・ 今更、引き返すことも出来ず、覚悟を決めて擦れ違った。
あの時の彼女の表情は、明らかに困惑のそれだった。 勿論、軽蔑や嫌悪ではなかった。

そのまま書籍部へ入り、サービス券で統計のプリントを買った。 W の態度は相変わらずそっけなく、まるで怒っているのではないかと思われるほどだった。
・・・・・
そのまま帰る気になれず・・・・・
散髪でもして貰おうと思って理髪部へ行ったが、一杯なので諦め、暫くあちこちぶらぶらしてから、図書館の一杯なのを確かめて、今度こそ断念して帰ることにした。

(注: 擦れ違ったのは P、困惑するしかなかったろう。 今思えば、H さんが杉山の大胆なアプローチに困惑したのと同じ状況だったのに、当時の私にはそれに気付く余裕が無かった。
W とは Wistalia のことだが、彼女の態度がそんなにそっけなかったとは思っていなかった。これまでの日記に出てくる彼女のイメージとは随分かけ離れている。 しかし、"相変わらず" と書かれている以上、私に対しては、きっとそうだったのだろう。
現実の世界に生きる彼女達と、夢想の世界で美化した彼女らに憧れ続ける私との距離は、遠ざかる一方だった。)

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1962.1.30(火) ・・たら、・・れば、を考えるのは不毛か?

体育に出る気にもなれず、高橋、大村とホールのストーブを囲んで経済政策の問題について話をした。 昼休みになったので引きあげ、二人と別れ、3号館の空いた教室でボンヤリ過ごした。
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・・・・・
大村が協組のサービス券で本を買うと言うので、後から行ってみると、Wis. の所でしきりに数えているところだった。 彼女の態度は全く感じが良いの一語に尽きた。 彼女の境遇がそうさせたのか知らないが、あんな控えめな優しい感じの人を僕はほかに知らない。 現在の僕は、P のことで頭が一杯で殆んど彼女のことを考えることもないが、駒場を去って何年か後、懐かしく思い出すのは、むしろ Pよりも彼女かも知れない。
P に惹かれるようになったのも、要するに、あの柏の木の下での事と、30番教室での事があったからであり、それまでは単に綺麗な女の子が居るなという位の気持ちしかなかった・・・
恐らく・・・、もし彼女と最初に知り合っていたら、恐らく僕は MK さんや P に心を動かしはしなかったろう。
初めて学校へ来て教科書を買った時から、何と清楚な人だろうと思っていた。 しかし、あの頃はMKさんのことで頭が一杯だった。 そして、それから P、・・・遂に Wistaria のことは意識の上には上っても心を左右するまでに到らなかった。 彼女は、この一年間、ずっとプレイガイドに居たが、僕は殆んどそこへ行くことが無かった。 用もなかったし、勇気もなかった。
・・・・・
もし、P との間にあったようなチャンスが有ったら・・・・

(注: 駒場を去る日が近づくと共に、憧れていた女性達への思いが募っていたのは確かだ。 もし、P との間にあったようなチャンスが有ったとしても、私が何か決定的な行動を起こしたとは思えない。 それが、所詮は "一期一会の夢" という諦念に囚われていた私の限界だったろう。 しかし、それらの夢が全て不毛の夢だったとは今でも思っていない。 これ等の夢は、私にとって決して幻ではなく、人生の一時期における現実だった。
"駒場を去って何年か後、懐かしく思い出すのは、むしろ Pよりも彼女かも知れない" と書いているが、50年後の今日、その気持ちに変わりはない。)

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2012年3月23日金曜日

1962.1.29(月) 本郷目指して最後の追い込み・・・夫々の道

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小田の話によると、専門科目は問題を見てから受験取り消しが出来るのだそうである。 もし本当なら実にありがたい・・・
・・・・・・
夜、有り金を全部(7千円)持って古本屋めぐりをした。 荻窪、西荻と数軒を覗き、二抱えも買いこんで来た。 残金が4千円余りだから、結局、3千円位使ったことになる。 仲々良い気持ちだった。

(注: 当時、フランク永井の"1万3千800円"(大卒の初任給) と言う歌が流行った位だから、3千円と言うのは今の感覚では5万円以上に当るだろう。 謂わば本の "やけ買い" をやったようなもので、気持ちよかったと言うのも肯ける。)

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1962.1.28(日) "英語なんて何よ" ・・・同感!

この前の約束に従って、11時少し前に金子さんのところへ行き、英語を手伝ってあげた。 5時頃まで一緒に奮闘したが遂に20頁くらい残ってしまった。 K 嬢の分担した所だそうで、帰りに電話して念を押したところが、まだ1頁しかやってないと言う。 失恋のショックで英語どころではないとのことであった。

"英語なんて何よ"

(注: これまでにも何度か紹介した桐生西中時代の級友で、早稲田の文学部に在学中だった金子安江さんが、我々と同様、期末試験で悲鳴を上げていたので手伝う約束をしていたが、友人の K 嬢の分担分がどうなっているのか心配だった。 今更 K 嬢などと名前を伏せるのは反って失礼に当るかも知れないが、一応、本人が"失恋"といっている以上、敢えてお名前を明かすこともないと思う。 とにかく、それ以上 "英語" の話など続けられる雰囲気ではなかった。 "英語なんて何よ"・・・全く同感です。)

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1962.1.26(金) 青春の寄り道・・・数学、音楽、、、

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渋谷の古本屋へ行ってみたが、碌な本がないので学校へ戻り、生協で "行列と行列式" と言うのを買った。 280円也。
(3/23 疲れたので休憩)
(3/24 続き)
Wistaria の態度は唯いじらしいの一語に尽きた。 何だかひどく可愛そうな気がして居たたまれなかった。
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・・・・・・・・・
そのまま叔父さんの所に電話し、兄の所へ寄って(留守)からお伺いした。 丁度プレイヤーをかけているところで、いろいろ聴かせていただいたが、叔代ちゃん達が日比谷公会堂で歌ったのを録音した盤があり、仲々素晴らしかった。 最後に叔父さんの思い出の曲である Unfinished Symphony を聞かせていただいてお暇した。

(注1) "行列と行列式" は、文科生にとって特に必要だったわけではないが、趣味で読んでいた"高等数学通論" に時々出てきて、良くわからないところがあったので、以前から必要を感じていた。 これが、後になって大石ゼミでのテキスト "線形数学と経済分析" の理解に役立ったり、更に富士通に入ってから、ORBSプロジェクトで待ち行列理論を応用する際、強力な武器になるとは、知る由もなかった。 今でも後ろの本棚に並んでいるが、何時何処で買ったのか忘れていた。 まさか、駒場生協で、Wistaria の手から受け取っていたとは! 彼女の態度云々は・・・この頃の私と彼女の間に、好意以上の感情が芽生えていたこと、そして2ヵ月後には恐らく永遠の別れが待っていることをお互いに覚悟していたからだろう。

(注2) 叔父さんというのは、二人兄弟だった父の弟で、昭和21年5月にラバウルから生還したその日のうちに7歳の私を自転車の荷台に乗せて、夕暮れ迫る東堤の澤に連れて行き、沢蟹捕りの楽しみを教えてくれた武叔父で、戦後はずっと錦糸町と押上をつなぐ大通りの中間、本所横川橋に住んでいた。 娘の叔代ちゃんが、小学校のコーラス部か何かのメンバーで日比谷公会堂でのコンクールに出場したのだろうが、詳しいことは覚えていない。
叔父の思い出の曲が未完成交響曲だったことは、我が家では周知の事実だったらしいが、すっかり忘れてしまった。 唯、母からかつて、「武さんは銀座のミルクホールに出入りし、社交ダンスに熱心だった・・」 と聴いた覚えがあるから、叔父には叔父なりのロマンスがあったのだろう。 未だ戦争の気配を身近に感じていなかった昭和初期の青春が想像される。

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2012年3月22日木曜日

1962.1.19(金)・・・うれしい人達"とは能天気ということ??

・・・・
4限の政治史をサボって駅に行った所、杉山に呼び止められた。 彼は彼で、昼休みに北寮前に居たのが H さんだったような気がしたので、もしやと思ってあちこちうろついていたのだと言う。 一度図書館を確かめてみたいと言うので、同意して戻ってみたが居るはずもない。 一緒に渋谷まで話をしたが、Hさんの言によれば、クラスの連中が皆うれしい人たち(?)ばかりなので、あまり授業には出ないと言う。
・・・・また、〇〇には、お母さん、姉さんと一緒にいるそうだが、皆、彼女が在学中に恋愛問題を起こしたりするのを好まないと言う。 蓋し、当然のことであろう。

考えてみれば、僕もとんでもないことをしたものだ。 実際、〇〇さんのご両親がどう思っておられるかと思うと、身のすくむ思いがする。よせば良かったの一語に尽きる。

(注: 彼は彼で・・と書いたのは、私が P に会わないように逃げ回っているのも、彼が H さんを探し回っているのも、立場は逆だが、両方とも相手にとっては、招かれざる客だと言う意味で五十歩百歩だと思ったからである。 いずれにせよ、依然として所謂良家の子女にとって、家族の意向を顧慮しない異性との交際など、考えられなかった時代が続いていたと言えよう。 しかし、"うれしい人たち" の一言のなかに、 H さんの覚めた視線を感じて、とても他人事とは思えなかった。
私達にとって、マドンナでしかなかった彼女達にとって、人生の選択は、待ったなしの現実として否応無く迫ってきていたのであり、それは、H さんばかりでなく、P やWistaria にとっても同じだったはずだ。 それは、"三四郎" の中で、美禰子が呟いた "stray sheep" と本質的に同じものだったのだろう。)

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1962.1.14(日) Dubliners に没頭?

二日間、殆んど部屋を出ず Dubliners を読んだ。

(注: 英語の授業で使ったテキストだったが、クラス担任の松村先生の授業ではなかったかと思う。 1年生のときに使った E.M. Forster の The Eternal Momennt とともに、心を揺さぶられる場面を集めた短編集だった。

私のホームページのタイトル
「一期一会・・・Our Eternal Moment」 は後者に因んでつけたものである。 また前者は、その中の「追憶十話」(・・・その4 駒場のことも夢のまた夢) の中に一部を引用している。 両者とも私が WEBサイト制作を決心したそもそものきっかけとなった動機の一つであり、大学に入って良かったと思った忘れえぬ思い出の文章である。)

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1962.1.11(木) 下宿学生の洗濯時間

8時45分に登校、慌てて教室に行ってみると黒板に "休講" と大書してある。 すっかり拍子抜けしてしまったが、この時間を無駄にすまじと早速引き返し、山ほどある洗濯を全部片付けて、大急ぎで取って返したのが12時45分、地学教室に駆けつけると、もう一人目が読み始めていた。・・・

終わってから、彼女に見つからないようにと急いで30番に逃げ込み、或いは前のの廊下を通りはしないかと注意していたが、遂に姿が見えなかった。事によると今日も欠席したのかも知れない。明日は教育心理学がある。今度こそ彼女が本当に〇〇さんであるかを確かめられる・・・

(注: 午前中の休講時間を利して洗濯する為、駒場と西荻を往復したとあるが、本当にそんなドタバタをやっていたのだろうか、いまだに思い出せない。
彼女とは、P のことだが、年末の冬休み中に手紙を出した相手・・・〇〇さん・・が本当に P だったのか、或いはとんでもない人違いだったのか、気もそぞろだった。 このあとどういう経過を辿ることになるのか、日記の先を読み通せば判るはずだが、発病以来、この3年間、その日のことを抜書きするだけでやっとという状態、それも今日現在2ヶ月遅れを挽回できずにいる有様で、とてもそれだけの気力が湧いてこない。 鬱病というのがこんなに始末の悪いものだとは、なってみて初めて判った。  )

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1962.1.9(火) 度し難い気の弱さ

体育は始めからやる気が無かったので、道具は持っていかなかった。 隅のほうで見学し、返事だけして引揚げたがあまり楽ではなかった。

先生の来るまで第一体育館の入り口で高橋、大村らと話していたが、あのとき柔剣道場の方から来たのはどうも彼女だったような気がする。 何だか空恐ろしいような気がして背を向けてしまったので確信は持てない。 何とも度し難い気の弱さである。

(注: この日のことは、日記を読んでも全く思い出せない。 楽ではなかったのが、体調のことだったのか、体調の所為にしてサボっていたことだったのか・・・、空恐ろしかったのは、小学校時代に通信簿に書かれたように、自分から意思表示したことのない私が生まれて初めてといってよいような告白をしてしまったかも知れない相手と顔を合わせることだったと思うが、これも全く記憶がない。)

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