2010年3月28日日曜日

1960.3.22~4.9 受験地獄からの開放・・・目的の喪失

(注: 3月22日から4月の9日まで日記帳には何も書かれていない。おそらく放心状態だったのだろう。 ただ、何かと忙しかったことは確かだ。うろ覚えながら、思い出せることを記すと・・・)

錦糸町に住む叔父からの合格第1報のあと、夜遅くまで見知らぬ先輩からの祝賀電話が相次いだ。
中には東大以外の有名校、例えば、一橋大学へ行った先輩から、私の合格祝いだけでなく、他の同期生や同窓生の戦果まで知らせてくれる人もいた。今ではまったく考えられないことだ。良くも悪くもこれが励みともなり、また、重圧にもなっていたのだろう。
小6の時の級友で前年に前高から理科2類に入っていた寺田尚弘君が私の家までお祝いに来てくれた時は嬉しかった。彼とは、小5の時の赤城登山でも一緒だった。

日記帳には記述が無いが、この間に慶大の合格発表を見に行ったはずだ。それが、三田だったか日吉だったかすら覚えていない。

東大合格については、祖母と母、それから叔父にお礼参りに行くよう言われた記憶がある。
祖母は高尾山、母は桐生の天神様、叔父は成田山新勝寺のお蔭だと言うので、この際、素直に従うのが正解だと遠路3箇所を回ってきた。とくに高尾山は生まれて始めていくところで、参道に聳える杉の大木が印象に残っている。それぞれ証拠物件を持って帰ったはずだが、何だったか覚えていない。

とくに母は、末広町の我が家から片道30分くらいかかる天神様に毎日歩いてお参りしていたと言うので、思わず目頭が熱くなった。お蔭で、今まで気にもしていなかった桐生天満宮の造作をじっくり検分することができた。

ラベル:

2010年3月21日日曜日

1960.3.21(月) 東大合格の第一報

中里さんと話していたら電話がかかってきた。

東京から叔父さんがかけて寄越したのである。
東大合格。
良かった。本当に良かった。
唯ほっとしたの一語に尽きる。
これからは、一層努力して今までの不孝を償い恩を返すのだ。

(注1:このあと家族の1人々々、とくに母の苦労に対する感謝と労わりの言葉が続くが、その後の言動を振り返ると三日坊主も良いところで、とても言行一致だったとは言えない。)

(注2:中里さんとは、同じ町内に住んでいた係りつけの鍼灸師のことで、小学校では一番の秀才だったそうだ。それまでは目が見えたのでどんなに複雑な漢字の綴りでも知っていた。)

ラベル:

2010年3月15日月曜日

1960.3.15(火) 本日、慶大経済学部(2次)受験

論文の題は 『 万物流転 』。
まったくお誂え向きの題が出たものだ。
薀蓄の一端を傾けて、どうやら八百字に纏め上げた。
面接は、やはり、苦手で大変気疲れがしたが、大過なくすんだ。
ただちに、下宿⇒八重洲口 と急行。
(八重洲口発桐生行きの急行バス。280円也)

車窓から眺めた御茶ノ水の灯は、永久に忘れられないだろう。
そして、また、MKさんのことも‥‥再び会うことはないだろう。

(注: こうして私の受験生活は終わった。しかし、いったい、何のための苦労だったのか、その後の50年にどんな運命が待ち受けていたのか、20歳になったばかりの私には知る由もなかった。)

ラベル:

2010年3月12日金曜日

1960.3.12(日) 慶大合格(1次)もあわや糠喜び?

朝、慶応の発表を見に出かけたのは良いが、肝心の受験票を忘れてしまい、多分七〇三五だったろうと思って行ったところ、まちがいなく出ているので欣喜雀躍して帰り、早速、受験票を取り出してみると七〇二五であり、思わず嘆息、次第に募る不安を押さえつつ、もう一度三田まで出かけた時の気持ちは何とも言いようがなかった。
しかし、ともかくも合格できたので実際ほっとした。二次ではぜったいへまはやるまい。

(注: よくもまあ・・・と言いたくなるほどのヘマ続きだった。それに、この文章の長たらしいこと・・・まるで出来の悪い源氏物語だ! この分では2次試験が思いやられる。たしか2次試験は作文と面接だけだったと思う。作文はともかく問題は面接だ。)

ラベル:

2010年3月9日火曜日

1960.3.10(木) 東大入試最終日(2次3日目)

遂に終わった。出来は決して満足すべきものとは言えない。
しかし、合格の可能性は十分にある。
この上は、全てを天に任せて、いかなる結果に立ち至ろうとも動ずることなく、最善を尽くしうるだけの度量を養うのみ。
唯一の願いは家族を安心させる事である。
更に、出来ればMKさんに再び会うことである。

(注: いかなる結果に・・・云々、とあるが、もし本当に落ちていたらどうなっていたろうかと考えると全く自信が無い。あるいは、自暴自棄になっていたやも知れぬ。一つだけ願いを聞いてやると言われれば、それが家族、とりわけ、ひたすら身を削って私や兄のために仕送りを続けてきた母を安心させることだったことに嘘偽りは無い。しかし、もし褒美にもう一つ願いをかなえてやろうと言われたら、躊躇無くMKさんとの再会をあげたろう。)

ラベル:

2010年3月7日日曜日

1960.3.9 (水) 本日、東大文科一類を受験(2次2日目)

(注: 東大の入試は、8日から始まるので、本来ならば明日の日付で投稿するところだが、知人の教え子が受験するらしいので、何かの参考にでもなればと思って今日のうちに載せることにした。)


午前英語、午後社会(注: 2日目、日本史と世界史の2科目)の試験をすませて早大へ向かう。
ご同様、東大帰りらしいのが大勢来ていたのでバスはひどく混雑した。
恐らく合格しているだろうと思って掲示を見たところが、無い。九〇七八の次をいくら見ても、探し求める九〇七九は無いのである。
まさかと思っていただけに少なからず意気阻喪せざるを得なかった。 (注: 思い上がりの天罰覿面)始めからどうでも良いとは思っていたものの、いざ落ちてみると落胆すること夥しい。全く自信喪失を感ずる。
東大は3日目、理科(注: 化学と生物の2科目)を明日に控えて、いささか気の挫けるのを如何ともしがたい。

(注: 東大の2次試験は、8,9,10の3日間の筈だが、日記帳には8日の記述が無い。理由ははっきりしないが、多分8日の国語と数学の出来が予想以上に良かったのですっかり気をよくしてしまったのだろう。今でも苦手の筈の数学が何であんなに易しかったのか判らない。問題が易しすぎたのか、それとも1年目の研数学館と2年目の駿台との教え方の違いなのか・・・恐らくは後者だろう。前者は旧制高校レベルの内容ですごく面白かったが入試にはあまり役に立ちそうもなかったのに対して、後者は、現役の東大講師が実に巧妙に入試数学の解答技術を伝授してくれた。なるほどこれなら数学にさほど興味が無くても楽々理一位には入れるなぁ・・・と呆れるばかりだった。最近の東大生には、まさか!と思うような無知な学生が多いと言う記事を良く見かけるが、何も今に始まったことではない。50年前から受験技術の下駄を履いて入ってきた学生はうようよいた。)

ラベル:

2010年3月3日水曜日

1960.3.3(木) 本日、3回目の東大受験(1次)

七時起床。東大一次受験に向かう。
試験場は、一昨年の二次の時と同じ部屋で、その上、監督の先生までその時と同じ方だった。
穏やかで立派な風格の方である。
(注: 3年後に、その先生が安藤教授だったことを知った。)

始めのうちは動悸が昂ぶり気味だったが、そのうちになれて落ちついた。
試験の出来は昨年に殆ど劣らぬ好成績で55点は絶対間違いないと思う。
あとはただ二次に全力を傾注するのみ。

(注: 確か、英数国各20点で、合計60点満点だったと思う。当時、文1は法経一緒で合格者800人に対し、1次で13~15倍を5~7倍くらいに絞っていたと思うが、あまりはっきりとは憶えていない。 とくに1回目は、1次の発表後に卒業式があり、答辞を読むことになっていたので、落ちたらとんだ恥を晒すところだった。 正直なところ、合否よりも、むしろそっちの方が気が気でなかった。 いずれにせよ2次で落ちた場合は、次の7~800人ごとに A, B, C のどのグループに入るかを知らせてくれた。 私は、1回目は B、2回目は A だったので、今年は3度目の正直と言う気持ちだった。)

ラベル:

2010年3月1日月曜日

1960.2.28(日) 本日、早大政治経済学部を受験

最も得意とする英語で一題問題を見落としてしまったので、もう駄目だと諦めていたが、次の国語が意外に好調だったので、最後の社会の出来如何では合格可能だと言う希望がわいて来た。
さて、括目して待った社会の問題は、と見ると、何たる僥倖、殆ど世界史に関係した問題ばかり。思いもよらない上々の出来だった。
あるいは、英語のミスを補って合格点に達しうるかも知れぬ。

(注:なにしろ問題用紙の長たらしいこと夥しいかぎり。一番あとのほうは机をはみ出して下腹にかかり、それでも足りず腿の上に折り重なるありさまだった。東大はもとより、慶応でもこれほどではなかった。今だったら苦情が殺到するだろう。)

残るは東大一校のみ、今年をおいてもう外に東大を受ける機会は絶対無いのだ。全力を傾注して悔いを千載に残さぬようにしよう。

(注:テレビに映るオリンピック選手たちの気持ちが良くわかる。しかし、プレッシャーは本人が勝手に感じるものだから課題の重大さと感じるプレッシャーの大きさには何の関係も無い。)

ラベル: