2012年6月21日木曜日

1962.5.7(月)「関口さん、法学部の学生は、そんなに優秀なんですか・・」「私・・」

講義が終わってから急いで神宮へ駆けつけ、4時50分頃まで応援した。 6回辺りまでしか見届けられず、心残りではあったが、鹿園さん宅へ向かった。

6時頃着いてから2時間ばかりで予定を終え、丁度帰宅しておられたお父さんともお目にかかり、5月祭の案内を申し上げて退出した。 名刺を頂いたが、通産省工業技術院 北海道鉱業開発研究所 所長 工学博士 鹿園直冶 とあった。 お会いした印象も非常に温厚な感じで気持ちが良かった。

スクールバスでお茶の水まで来る時、あのNM さんに良く似た人(Rose に因んで R と呼ぶことにする)と乗り合わせた。
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(休憩・・・2012.6.21)
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(再開・・・2012.7.8)
バスを待っていたときと、御茶ノ水で下車するとき、それから駅のホームで一度ずつ眼が合ったが、思わずハッとするような表情があった。

 (注1): 神宮球場で試合の途中で、応援席を抜け出し、鹿園さん宅へ向かった時のことははっきり覚えている。 なぜかと言うと応援団のリーダーと思しき上級生から、「最後まで応援しましょう」 と大きな声で呼びかけられ、「これからバイトがあるので・・」 と釈明した時の後ろめたさを忘れられないからだ。 もちろん、応援席の殆んどの学生は、こちらの事情を尊重して好意的な表情だったが、とにかく広いスタンドの通路を衆人環視の中で通り抜けるのは気の引けること夥しかった。

(注2): 鹿園直建君のお父さんに会ったのは、この時を含めて数回くらいしかなかったと思うが、大抵、大蔵省の担当主計官との予算折衝のために上京しておられた折だったと思う。 この時だったか翌年、下北沢に越された後だったか、はっきりしないが、一つだけ印象に残っている会話がある。

鹿園 「関口さん、法学部の学生は、そんなに優秀なんですか・・」
関口 「法学部の学生が特に優秀だと言うことは無いと思いますが、法学部の中では大蔵省に行く連中の成績が良いことは事実でしょう。 多分、10番以内くらいだと思います・・」

多分、工学博士で地質学の専門家であった直治氏から見ると、素人の若い役人が分かったような顔をして馬鹿馬鹿しい質問をするのが痛々しくて見ていられなかったのだろう。
むしろ、同情気味に 「とにかく弁が立つし、良く勉強しているようですね・・」 と仰っていたように思う。

私自身、後年、富士通で銀行局の課長と付き合う機会があったが、その人が主計局に移り、電子工業担当の主計官になった際、何かとお知恵を拝借したいと言って、NTT、NEC・・ 等の部長達と一緒に一席設けてもらったことがある。 とにかく何でも分かっている振りをするのも大変ですね・・と同情したものである。 原発問題での役人の右往左往も同じことだろう。 分からないことは素直に分からないと言えばよいのにそれができないと言うのは、役人に限らず、医者でも弁護士でも教員でも、権威で口を糊していくしかない(と思い込んでいる)人々の通弊である。

(注3): 駒場時代には派手な下級生に目を奪われ気味だったが、本郷で卒業するまでの2年間、同期で文学部へ進学した何人かの女性に関する記述が増えてくる。 現金だと言えばそれまでだが、単なる恋愛感情を超えた同志的連帯感のようなものが生まれつつあったような気がする。

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2012年6月15日金曜日

1962.5.6(日) 本郷での勉強にも身が入らない・・・

昨夜は、吉沢のところで、大いに議論を交わし、愉快だった。 吉沢の家は、意外に綺麗だったので一寸羨ましかった。
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宝くじは、遂に外れてしまった。
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Azalea,  君は今何を考え、何をしているのだろうか。 この同じ空の下のどこかに君が居て、今この瞬間にも何か考えているのだと言うことが不思議でならない。

(注: サブゼミはともかくスタートしたらしい。 しかし、いつまで続いたのか、さっぱり記憶がない。 吉沢の家は、西荻から吉祥寺に向かう線路沿いにあったので、以前から外から見たことはあったが、上がりこんだのはこれが初めてだった。 "綺麗云々" は、桐生時代から友人の家へ行くたびに感じていたことで、今に始まったことではない。 明治40年ごろ建てた築60年近い木造の我が家に比べれば、マッチ箱のような当時の公営住宅のほうがよっぽど綺麗で羨ましかった。 ましてや、当時のサラリーマンの夢であった中央線沿線の一戸建てが羨ましくないはずが無かった。

宝くじの付きも尽きたらしい。

Azalea に対する想いは、直接、姿を見る機会が無くなっただけ、空想の世界で歯止めがかからなくなった気味がある。 そもそも、柄にもなく文科一類などに入ったのが間違いの元で、心から没頭できる教科が無かったため、空想の世界で憂さばらしをするしかなかったのだろう。

そのことは、後年、富士通の新入社員として、山本卓眞課長の下で、銀行オンラインシステムのアプリケーションプログラムの開発に没頭した時の心理状態を思い起こすたびに痛感する。 没頭とは、例えば、数百行のマシンコードの1ビットに到るまで脳裏に焼きついて離れず、徹夜明けで帰宅した同僚と、何も見ずに電話で相談できたと言うことだ。 )

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2012年6月11日月曜日

1962.5.4(金) 犬も歩けば・・・良いことばかりに当るとは限らない!?

神田で岩波の経済学小辞典と近経講座の3巻を買ってきた。
帰りに駒場へ寄ってみた。 図書館で30分ほど General Theory を読んでから寮食で夕食を摂って帰った。 渋谷の井の頭線改札口のところで見た女の子が Azalea に良く似ていたが、後姿を見ただけだし確信は持てない。それに一寸背が低かったような気がする。 誰かを待っていたらしい。 帰りにもしやと思って気をつけて見たが勿論いなかった。

宝くじは150円当っていた。 これで通算すると、300円買って250円取り戻したことになる。 ともかく上り坂であることは気分が良い。 明日あたりまた何か当らないものか。 順序から言えば今度は1000円ということになるが・・・。

宝くじを買ってからパン屋へ行く途中、橋を渡ったところで、30~40才位の男の人に声をかけられたので、何だろうと思って聞き返すと、小さな声で "同性愛してくれない? きらい?" と言うではないか。 まったく何とも言えない、恐ろしい(と言うより不気味な)感じがした。 きたならしいともいやらしいとも言いようのない不快さであった。

(注: 権之助坂を下りきった目黒川の左岸に下宿していた時の話である。
宝くじは過去3回、50円⇒100円⇒150円 と当り続けたので、次は1000円 かと期待したくなるのも無理は無かったが、"同性愛" 云々の一件ですっかり付きが落ちてしまったらしい。それにしても通算250円というのは数字が合わない。 その位ショックが大きかったと言うことかも知れない。)

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2012年6月10日日曜日

1962.5.3(木) 桐生の同級生二人

12時頃下宿を出た。荻窪の本屋を一まわりし、 Value and Capital を買ってきたので、金子さんのところへ着いたのは2時頃だった。
商品流通のところを少しやってみたが、埒があかないので、13日までに一通り読んで置く約束をして別れた。

帰りに渋谷で途中下車し、本屋を一巡りして戻ってきた時、道玄坂口(地下道の)の辺りで名前を呼ばれ、誰かと思ったら高橋誼だった。 コーヒーを飲みながら色々話をしたが、彼は浪人1年後、中大に合格したのだが、縁故があって日大の司法研究室に入り、今度、司法試験を受けるとのことだった。 〇〇君(〇〇先生の息子)が精神病で順天堂に入院したというのは、一寸意外だった。

(休憩・・2012.6.10)
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(再開・・2012.7.8)
今日の金子さんは何だかとても綺麗に見えた。 何というか、今までに無くソフトな感じだった。 金子さんをあんな気持ちで見たことは今までになかった・・・じっといつまでも見とれていたい衝動に駆られた。 しかし、果たしてこれが彼女に対する恋愛感情を意味するものかどうかとなると甚だ自信がない・・・
知性、教養から言っても、また容姿の点から言っても、あの位のものを備えている女性と親しくしていれば多少なりとも心を惹かれるのは当然であろう・・・・。

(注1): 高橋誼と東京のどこかで出くわしたことは覚えていたが、多分、駅か電車の中でだろうと思っていた。 渋谷の喫茶店で腰を落ち着けてこんな立ち入った話をしていたとは、この日の日記を読むまで忘れていた。 それに、〇〇先生や〇〇君のことは今でも全く思い出せない。 一方、日記には何も書いてないので、別の友人だったかも知れないが、将来は悪徳弁護士になる心算だなどと軽口を叩いていたのを憶えている。

当時の私は、学者になる気がないのに大学に行く必要があるのかという世間知らずだったから、法学部に進学した連中と毎日のように付き合っていながら、彼らの卒業後の進路に関してもまったく関心が無かったので、なるほどそういう手もあるのかと妙な感心をしたものだ。

L1-6B の同窓会でこんな話をしたら、みんな呆れかえるか、逆にお前は昔からそうだったと言って改めて納得してくれるかどちらかだろう。 そういえば、いつだったか安田講堂前の芝生で彼らの何人かと雑談していた時、堀籠から、関口は何かの教祖になるタイプだというようなことを言われた記憶がある。 流石に後年、最高裁判事になるだけあって、人を見る目が鋭かったと言うべきか。

(注2): 金子さんが、畑違いの経済学の単位をとらなくてはならないので、教えてくれと言われ、国民経済循環のイロハくらい知っていなくてはと思って教えようとしたが、箸にも棒にもかからなかったと言うのが前段。 後段は、中学生時代から出来の良い"従姉" 位の気持ちで見ていた彼女を突然、"妙齢の" 女性として意識したということ。 しかし、その先なにも起こらないのが、堀籠の言う "教祖" たる所以であろう。 中学時代の仲間の内には、私と金子さんは、サルトルとボーボワールのような関係だと思っているものも居るかも知れないが、実際は、遥かそれ以前(?)、竹林の七賢の中に、紅一点が混じっていたと言う方が当っている。 七福神の中に弁天様がいるようなものだ。

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2012年6月5日火曜日

1962.5.2(水) サブゼミの相談やら、従弟j妹達の進学指導やら

原論は休講だった。 小西は8時5分には学校に着いていたそうで、頻りにぼやいていた。 稲垣と受付のところで会い、3人でコーヒーを飲みに行った。
財政学の終わったところで、皆で相談した結果、土曜6時半に西荻窪駅に集合することになった。吉沢が部屋を提供するとの事であった。 帰りに神田へ出て、近経講座Ⅱと General Theory を買った。 本屋めぐりの途中、松村さんに会い、一応会釈しておいたが、先生の方では全然記憶がないらしかった。

伯父さんのところでは、淑代ちゃんに簡単な代数計算の問題と比重の問題、それから修ちゃんに代数の応用問題を説明してあげた。 10時半ごろスクーターで錦糸町まで送っていただいてお暇した。
それにしても、淑代ちゃんが

比重 ρ=Ag/Wg=Ag/{(Wg/V)・V}=Ag/V=d

を理解してくれた時は嬉しかった。

(注1): 吉沢と言うのは、後に貨幣論で一家を成し、甲南大学長を務めた吉沢秀成である。一度、西荻の線路沿いに有った吉沢の家に行ったことが有ったことはずっと覚えていたが、一体何をしに行ったのかは、すっかり忘れいた。 多分このサブゼミもそれっきりで流れてしまったのではないかと思う。

(注2): 修、淑代の従弟妹は、夫々、高校受験を控えてそれなりのプレッシャーをかかえていたらしく、叔父や叔母も気を揉んでいたので、ときどきご馳走になっていたお返しを兼ねて、勉強を見てあげることにした次第。 2人とも私達3人兄妹と似たような能力だったが、とくに妹の淑代ちゃんは、その気になれば相当いけそうな気がした。 因みにこの式で、いったい何を教えようとしたのか未だに良くわからない。 水の比重を1と定義しているので、結果として "比重の値"="密度の値" が導かれるということらしいが、高校入試の算数でこんな根本的な概念を出題するはずはないから、恐らく私の中学時代からの教科書不信のウップン晴らしの相手をさせたのだろう。
しかし、ともかく叔父や叔母が単なるご馳走でお茶を濁すはずはないから、きっと月々の不足分2千円くらいは頂いたに違いない。

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2012年6月3日日曜日

1962.4.28(土) 本郷での新しい日々

岡さんの時間、小西が後で話しがあるという。 授業が終わってから一緒になったので聞いてみると、サブゼミのことであった。 結局、木曜日にやることに決めた。

大竹、山田、黒川と一緒に二食で昼食を済ませ、映画に行くという大竹、山田と別れ、黒川と一緒に帰った。

東工大へ行くという黒川と渋谷で別れ、鹿園さん宅へ伺う。 2時間40分程、勉強して引き揚げた。 来週は、子供の日に当るので、繰り下げ、月曜日にやることになった。

(注: サブゼミなどと言う言葉を聞いたのは、多分これが初めてだったのではないかと思う。 その位、大学での勉強に疎かったと言うか、関心が無かった。 これでは、小西から、君くらい付き合いにくい男は居ないと言われても仕方なかったろう。 しかし、ともかく、鹿園家での家庭教師の仕事も始まり、新しい日常の”順調な” スタートを切ったことになる。)

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1962.4.24(火) 大石ゼミ初日

ゼミは例によって大変心配したが、なかなか楽しかった。 大石先生も非常に温かみのある人で、これから楽しくやれそうな気がした。

それにしても、僕くらい無趣味かつ無為な男が果たしてこの世に居るだろうか。 今日という今日はまったく情けなかった。 結局、僕は social misfit なのであろうか。
食堂で一緒に夕食をとっている間、小西が、君くらい付き合いにくい男は居ないと言ったが、蓋し当然のことだろうと思う。
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(注: 前段でゼミが楽しそうだと言っておきながら、後段で、自己嫌悪に落ち込んでいるには、何かがあった筈だが、それが何だったのか、未だに思い出せない。 しかし、そんな気持ちになったのは、この時が初めてではない。 周囲に付いて行けないという孤独感は、小学校の頃から持ち続けていた。)

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2012年6月1日金曜日

1962.4.21(土) 学習院高等部一番の秀才

岡さんの講義が終わったところで、大竹、杉山に会い、3人で一緒に2食で昼食を摂った。 バス停の前で、3人で話しているとき、MKさんとOHさんがそばを通って行った。 吉祥寺へ行かなければならないので、先に一人でバスに乗ったが、発車間際まで2人はそこで話していた。

吉祥寺に着いたのが1時40分頃、15分ほどあちこち歩いた末、交番で聞き、結局5~6分遅刻してしまった。 鹿園さんのお宅は、丁度、田村さんの所のような高台の非常に気持ちの良い家だった。 奥さんも非常に上品で理解のある方なら、息子さんの方も実に素直で真面目な少年だった。

とり敢えず打ち合わせをしてから、少し独語を教え、英語は2頁ばかり読ませて、大体、相手の学力を見るだけにした。
お母さんは 「一番といっても学習院ですから」 などと非常に謙遜しておられたが、どうしてなかなか優秀な生徒で、僕としても遣り甲斐のある仕事を得られ、まず、文句なしというところである。

これで今度は2千円くらい奨学金が取れれば言うことはないのだが、若し駄目ならもう一口くらいアルバイトをしなければならないことになるから、そうなると一寸負担である。

(注: MKさんとOHさんは、これまで何度もふれたように、駿台以来の顔なじみの女子学生であり、駒場時代のように会う度にドッキリするようなことは、なくなっていたが本郷時代を通じて依然として無視できない存在だった。

鹿園さんの家を訪ねたのは、これがはじめてである。本郷のアルバイト紹介窓口で薦められたのがきっかけであったが、本当に素晴らしいご家庭だった。 お名前が優雅なのでもしやと思って伺ったところ、案の定、元華族の家柄で、お母さんは元東大教授の伯爵令嬢、お父さんは温厚な学者肌の方で、元堂上華族の身分だったそうである。 世が世なら私ごときが大きな顔をして出入りするのも憚られるようなご身分だった筈だが、少しも尊大なところは無く、気持ちよくもてなして下さった。)

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1962.4.17(火) 大石ゼミ合格

大石さんのゼミは全員許可と掲示が出ていた。 まずはやれやれと言うところ。 3時頃、No.5へ行ってみたが誰も居ない。 おかしいなと思って掲示を良く見たら、24日に集合とのこと、まったく、誰も居ないはずであった。

そこで、早速、駒場へ急行、成績証明書を貰ってきた。 一応、下付願いを出してから、成証ができるまでの30分間、校内を散歩し、書籍部へも行ってみた。 久し振りに Wistaria の姿を見ることが出来た。 教務の前で立っていたとき、11番脇の出口から現れた女の子は、どうも H さんらしかった。 立ち止まって、どうも納得がいかないといった表情でこちらを見ていたことからして、彼女でなかったとは考えられない。

(注: 大石泰彦先生のゼミはマル経全盛の東大経済学部の中では、唯一の近経理論に特化したゼミで特に数理経済学では突出していた。 小西に薦められて志望したものの、全く自信が無かっただけにほっとしたの一語に尽きた。

結局、2年間、不肖の弟子で終わったが、後年、ゼミで齧った線形代数や微分方程式が、オンライン・リアルタイム・バンキング・システムの基本設計で役に立ち、上司から文系にしては使い物になると褒められる基礎になるとは夢にも想像しなかった。

お蔭で、大石先生の古希記念論文集の末席に拙文を載せていただくことになるのだから、スティーブン・ジョブズのスタンフォード・スピーチではないが、人生における時事片々の意味などは、後になって見なければ分からないものだ。) 

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