2011年7月22日金曜日

1961.6.16(金) 夢のまた夢

散髪してもらおうと思って行ってみると5~6人先客がいる。 40~50分待っても埒が明かないので諦めて戻ってくるとアーケードの方へ P が行くのが見えた。・・・
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・・・30番あたりで擦れ違ったが、その時の彼女の態度がまた実に意外と言うか、驚くべきものだった。 いつも浩然と胸を張って歩いている彼女が、僕に近づくや急に気弱そうに視線をそらし、恐らくは用もないのに腕時計をもっともらしく見たり、・・・・ 狼狽したような素振りを見せたのである。 これは一体どういうことだろうか。
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・・・恐らくは驕慢な、とばかり思っていた彼女があんなしおらしいと言うか純でいじらしい態度を見せるなどと言うことは、それこそ夢想だにもしなかった・・・
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さて、語学の時間、杉山と例の如く話をしたが、S が、H某と言う名前であることが判った。 とにかく彼らのために幸多からんことを願うのみである。

2学期までの通算成績が思いのほか良かったのでほっとした。(239番) 
これなら大威張りで経済学部へ行けるというものである。

生協主催の音楽会(9大)に出てみたが思いのほか良かった。 しかし、せっかくの音楽会にあれだけしか聴衆が集まらなかったのは残念だった。

(注1) P とは例のパラソルをさしていた女の子のことである。 S とはインスタントコーヒーを喫していた女の子のことである。 二人とも目立つ存在だったが興味の対象ではあっても惹かれるというような気持ちまで行っていなかった。 S は杉山が本気で付き合おうとしているようなので、以後、あまり気にすることもなくなっていったが、P には次第に惹かれるようになって行ったことは確かである。
しかし、なぜか MK 嬢を含めて、所詮、遠くから想うだけの縁に終わる予感があった。

(注2) 239番というのは、800人中の順位であり、この位置にいたら、法学部へ行けると言って喜ぶのが普通だった時代であるから、我ながら大方のクラスメートとは、ずれた意識の持ち主だった。

(注3) 9大とは9番大教室の略だったと思う。 出席者が少なかったのは、皆、夫々の集まりの場を持っていて、私のように一人で構内をうろついているほど暇ではなかったからだろう。 

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1961.6.15(木) 肩透かし対誘導尋問

四限、いよいよ待望のロシア語である。 3時限の独語の講義も半ば上の空であったらしい杉山も勇躍(しかし、意外に弱気な態度を見せたりした)決定的瞬間に臨まんとしたまでは良かったが、いくら待っても彼女の姿が現れない。 まったくお互いに拍子抜けしてしまった。
やむなくと言うわけで帰りに彼女の相棒(丁度ワンゲルで大竹と知り合いだった。)をつかまえ、小柳の言を借りれば誘導尋問を試み、まんまと彼女の出身校、名前、クラスを訊き出してしまった。(もっとも僕は、後から追いついたので、名前、クラス等は聞き漏らしたが) とにかく驚いた手腕である。 杉山としては、これで漸く愁眉を開いたというところであろう。

(注: 欠席で肩透かしを食わされても、そのくらいでは諦めず、相棒に対する誘導尋問で食い下がったところなどは、クラスの面々にとっても、まさに虚々実々の攻防で見ものだった。 その時点で出身校名を含めた本人確認はなされたが、この日記でこれ以上書くわけには行かない。)

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1961.6.14(水) 大(?)運動会

午後、運動会を見に行ったら、それでもクラスの連中が11~2人来ていた。 そのうち杉山もやって来たが、I が見えないので残念そうだった。 大竹がマラソンに出ると言うので応援したが、大分へばっていたようで気の毒であった。

(注: 大竹が参加したのは、彼がワンゲル部員だったからで、気の毒と言ったのはやむなく出たのを知っていたからだ。)

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1961.6.12(月) ハイル スチュワーデス!

十時少し前に学校へ着いたので、早速X線撮影に行ったところ、誰も居らず、お蔭で一分もかからずに片付いてしまった。
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教室で黒川と話していると杉山がやって来て、さっき図書館でやつに会ったが、あの時の態度を見せたかったなどと大変な鼻息。 そのうちに大竹がやって来て、"ハイル スチュワーデス!" とやったから一同思わず失笑するという賑やかさだった。

(注: 1960年入学の東大生と聞いただけで "全学連" を連想する向きが多いらしいが、大方の学生達の関心事はかくの如く他愛のないものだった。)

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1961.6.10(土) 生協書籍部レジの麗人・・・限りなく上品なお嬢さん!

一限が終わってから帰る気のしないまま北寮前のベンチに腰掛けていたら堀篭が来て一緒に帰ろうと言う。 しかし、どうも気が進まないので断った。 食堂へ行く時、プレイガイドの女の子を見た。 珍しくとても華やかな服装をしていた。 しかし彼女には制服か Y シャツにネクタイといった服装の方が清楚かつ毅然としていて似合うように思う。

(注1) 堀篭とは後に最高裁事務総長、大阪高裁長官、最高裁判事まで登りつめた堀篭幸雄である。 気が進まなかったのは帰ること自体であって、相手が彼だったからではない。 むしろ馬が合うほうだったと思っている。
(注2) 駒場生協のレジの所に、入学当初から感嘆措くあたわざる思いで仰ぎ見ていた麗人がいた。 暫くの間は先輩学生だとばかり思っていたが、そうこうするうちに生協の専従職員だと言うことがわかった。 東大ともなれば生協売店の一職員でもこれほど才色兼備の女性でなければ勤まらないのかと思うほどの人だった。 私が密かに付けた符牒は、wistaria だった。 とにかく当時の私にとって駒場というところは、夢を見ているような世界だった。)

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2011年7月21日木曜日

1961.6.9(金) 授業には出たのだろうか?


今夜もNHKのクラシック
サンサーンス  ピアノ協奏曲第5番
           in F. minor
モーツアルト  41番ジュピター

たしか、昼休みだったと思うが、20番のところでアーケードの方から来るMKさんに会った。 この間の新聞で見た”容姿の美は人の心を魅了することは出来ないが、心の美しさは人の心を魅了する”と言う言葉がぴたりと当てはまるような”慎ましいというか謙虚でひたむきな表情が印象的だった。

(注: 相変わらず女子学生とクラシック音楽のことしか書いてない。 それも他人ごとのような書き方だ。 とても何かを真剣に考えていたとは思えない。 まさに空回りとしか言えない学生生活だった。)

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1961.6.8(木) 噂の女子学生の who's who?

・・・ところで杉山の言う所では、やはり S は噂のスチュワーデスではないそうである。 どうもそれにしては背が低すぎると思ったとおりだったことになる。 と言うわけでこれからは彼女を I (インスタントコーヒー)と呼ぶことにする。
今日は、いよいよ待望(?)の露語がある。

(・・・疲れたので中断する。)

席は1限が終わった時にとって置いたので、野島さんが終わった後ゆっくり待って更に一つ余分にとり、大竹や杉山を迎えに行こうとすると、丁度 I が例の友達といっしょに入って来たので、狭い通路ですれ違うことになった。 階段のところまで行くと二人が来たので、そこからまた引き返すと僕のとっておいた席のすぐ後ろへ彼女が掛けているではないか。 いや、杉山の喜んだことと大竹の驚き呆れたさまと言ったらなかった。 結局、大竹と僕が彼女らの前に座り、杉山は "ここ空いてますか" とまことに調子よく彼女の右隣へ席をとった。 いやはやとんでもないことにない事になってきたものだと大竹とおかしさをこらえるのに懸命であった。・・・・・

講義が終わってから矢内原門のところで大竹、小柳と別れるまで他愛のない話をしながら大笑いしたが、とにかく杉山の言うことが振るっている。 つまり、"俺とあいつの間には、びりびりと電流のようなものが通っているのだ" と、まあざっとこんな調子である。 ・・・・ 結局これは、そのつもりで見れば何でもそう見えてくると言う人間の弱点を如実に示す好例であるといえよう。 何れにせよ、いよいよ面白くなってきたと言うものである。

(注: 野島さんの講義が何だったか、科目すらまったく思い出せない。 例の友達と言うのも記憶がない。 小柳と言うのは一緒に仏語や露語に手を出すほか、必修科目の独語では四谷の教会まで独逸婦人に会話を習いに行った親友の一人だったが、後年、西武事件で苦境に追い込まれ自ら命を絶つことになった小柳皓正君である。
日記では杉山にピエロ役を演じてもらっているが、その実、彼をだしにして我々自身の関心を紛らわせていたのだろう。)

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1961.6.6(火) 経済学部のガイダンスも上の空

新宿で降りられず四谷まで連れて行かれ、お蔭で30分も遅刻してしまった。
統計学を聴く気にもなれず、大竹と一緒に正門前の芝生で本を読んだり寝ころんだりしているうちに昼になり、そのまま四限の仏語もさぼって600番で昼寝をしていた。
3時50分から経済学部のガイダンスを聴き、結局殆ど勉強もしないで1日終わってしまった。

S には一度も会わなかったが、P には地学が終わった後アーケードのところで一度出会い、更に教務の廊下の窓から協組のほうへ行くところを見かけた。
またガイダンスの始まる前、大竹、黒川とお茶のみ場へ行く途中、試験事務所脇で MK さんと行き会った。 全く感じの良い人である。

(注1) 新宿で降りられなかったのは、当時の中央線の混雑ぶりが並大抵のものではなかったからである。 文化一類に入りながら、大半の学生が志望する法学部のガイダンスに出席した記憶はない。 それほど経済学部に入りたかったのかと言えば、そうでもなかったことは、日記に何の記述もないことからも明らかであった。 興味のない分野を単に義務感から受験した結果がこうなることは今も昔も変わらない!

(注2) 相変わらず S や P のことは気になっていたのか毎日のように何らかの言及がある。 そして MK さんへの賛嘆の言葉も・・・多分、自分の節操のなさに負い目を感じ始めていたのだろう。 しかし古希を超えた今なお、一番懐かしく思い出すのは MK さんの控えめな姿である。

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2011年7月16日土曜日

1961.6.5(月) 紛失した学生証も気になるが・・・

登校してすぐ学生証、紛失届けを出した所、再交付は一週間後だと言う。 がっかりしてすっかり諦めかけて居たが、昼休みに掲示を見ると呼び出しが出ている。 これはと思い行ってみると受付の遺失物係からで、神保町の菊三べーかりーから学生証の忘れ物があると言う通知が有ったと言う。 それこそ欣喜雀躍して、三時限の終了後出かけていき、店の女の人から受け取ったが、店の椅子の上に置き忘れてあったと言う。 勿論、僕は此処数ヶ月、神田へ来たことはなし、全くおかしい。

恐らく、最初に拾った人が、何かを当てにして持ってきたが、目ぼしい物がないので無いのでそのまま置き捨てていったのであろう。 それはともかく、無事にしかもこんなに早く出てきたのは実に運がよかったと言うほかない。

(注: この時こんなに喜んだのは、とにかく定期代が心配だったからだ。1年後に本郷の教室で盗まれた時などは、偽東大生の詐欺行為に悪用され、警視庁捜査二課の刑事が2名下宿先に遣ってきて目黒署まで任意同行を求められた程だから、この時拾得した人が、その道のプロで東大生の学生証の悪用価値を知っていたらこう簡単には済まなかったろう。)

昼休み、例によって杉山、大竹、黒川らと食堂の方へ行ったところ、プールの方から何と、Stu. と Par. が仲良く一緒にやって来るではないか。 大竹もすぐそれに気付き二人で杉山に注意した所、ふんふんと言っているので了解したものとばかり思っていたら、ああ、あれは、とばかり驚き、かつ、しきりに残念がるので、大竹と共に大笑いしてしまった。 まったく杉山も迂闊なことであった。
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食堂からアーケードを見て105番へ引揚げる途中(勿論皆一緒に)、やはり同じところでMKさんに行き合った。 全くあの人だけは別で、その時ばかりは、S. やP. に会った時には少しも感じないような恥ずかしさや引け目を感じるから不思議と言えば不思議である。 恐らく MK さんの方でも、僕と杉山の二人に面と向かっては随分居心地が悪かったろうと思う。

(注: 学生証の一件が落着し、経済的苦境から脱することが出来た途端、女子学生を巡る噂雀の一羽に成り下がるような状態では、 "meditation" や "ZEN" を志してはいても "Pity's akin to love" の世界への執着を捨てきれる筈はなかった。)

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1961.6.4(日) 学生証紛失 

都電で浅草橋まで行ってみた。 実際、下町とはこういうのを言うのだろうと思われるような雑然とした、一種異様な情緒に溢れた所であった。 が、概して親しみの持てる雰囲気があった。
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しかし運の悪い時は悪いもので、都電でまた新宿駅まで引き返し、いざ電車に乗ろうと思ってポケットに手を遣るとどうしたことか定期入れがない。 まったく僕としたことが何ということか。 浅草橋くんだりまでぶらぶら出かけて行って、ただ定期(いやそれよりも学生証の方が重大だ)を失くしてくるなんて、全く呆れてものも言えない。 やむなく切符を買って帰ってきたが、いかにも残念、寝覚めの悪いこと夥しい。

(注: 浅草橋へ行ったのは、訪ねたい人がいたからだが、結局その家も見つからなったので、代わりに神社の境内に寄って縁日の屋台を覗いたりしたのでそれなりの意義があったと言えばいえる。 新宿から都電で往復したのは、都バスや国電で行くより安上がりだったからだ。 何しろ距離に関係なく往復25円だったと思う。 以前は乗り換えも利いたそうだが、その頃は既に廃止されていた。 因みに都バスの方は、東京駅~渋谷駅で15円だったと思う。)

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2011年7月15日金曜日

1961.6.2(金) "西独の出家青年" と "Pity's akin to love" の間

地学が休講なのは判っていたが、部屋に燻っていてもつまらないので学校へ行ってみた。 丁度、渕上が来ていてバドミントンに誘われたので一時間ほどやってみたが、不思議なほどうまくいかないので呆れてしまった。
(注: 私がサラリーマンになってからも必修科目とも言うべき ゴルフ を1回社内コンペ・・コンペとは何ぞや・・に出ただけでやめてしまったのは、かかる運動神経の持ち主だったからで他意はない。)

その後、十二時半から、西独人でアジア旅行中タイで meditation に興味を持ち出家したという写真家ホルストエルラー氏の話を聴いた。 スライドを使ってドイツや東南アジア諸国の事情について、主に仏教(宗教)の立場からなかなか興味ある話があったが、結局その眼目は何かと言えば、ヨーロッパでも自然科学の発達に伴い宗教は既に力を失いつつあり、青年達で真に宗教に関心を示すものは稀になったと言うことであり、これを救いうるのは仏教、それも ZEN 以外にはないと言う所まできていると言うことであった。 まことに我意を得たりと言う所である。
(注: 我人生路線に間違いなしと心強く感じたことはたしかである。 しかし、その禅も今や世襲業化して、浅薄な論理学の衣をまとい風前の灯と化している。)

北寮の前で渕上と別れ、ぶらぶらしていると阿部に声をかけられ、一寸立ち話をし、それから・・・・・・
(注: 日記には阿部としか書いてないので確信はもてないが、一緒に駿台を受けた桐高の一年後輩、安部達雄君だったろうと思う。)

教務の脇を通って書籍部のほうへ行こうとしたら、向うから MK さんが一人でやってきたので、思わずどきりとして足を止め相手と目が合わないように念じ乍らじっと姿を目で追っていると、向うでもそれに気がついたらしく、何か非常に窮屈そうな表情でじっとうつむきがちに前方を見つめたまま第一本館に姿を隠したが、全くあの人のそういう姿を見ると、最近、杉山たちに釣らされて S. や P. に心を動かしたのが何とも恥ずかしく、慙愧に耐えない気持ちになる。

(注: タイで出家した西独の青年と女の子の誰彼に対する独りよがりの憧れや反省に現を抜かしている自分との距離の途方もない大きさに愕然とした。 S. とは杉山の言う スチュワーデス 、P. とは私が符牒で呼んでいたパラソルの女性のことである。 実を言うと私は文学作品を通して読んだことがなく、漱石の三四郎もその例に漏れなかった。 従って、 美禰子が呟いたという "Pity's akin to love" の本当に意味する所が何辺にあるかも判っていなかったが、にも拘らず何か通ずるものがあった。)

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2011年7月6日水曜日

1961.5.31(水) 自治会の年中行事・・・スト決行中

九時ごろ登校してみるとスト決行中で、ピケが張られ中へ入れない。

(注: やっと今日で、5月が終わるのだが、疲れたので中断する。 それにしても、日記の行数からもこの 4月以来、美女軍団に翻弄された様子がありありと見て取れる。 ああ、懐かしい。 それにしても疲れる。 この調子で 7月末までに 1月後れを取り戻せるかどうか・・・)

丁度、去年の時と同じようにバレーコート脇の空地で一年生達が盛んに議論を戦わせていたのが印象的だった。 そのうち大村、宇田川、平野等と一緒になり、スト反対論を一くさり並べてウップン晴らしをした。 午後は第一体育館で体操をした後、・・・・
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昼休み、体育館の方へ行く途中、第一本館の東北の柏の木の辺りで Par. に出合ったが、意外なことにいつもあれだけ自信のある態度で颯爽と歩いている彼女が、どうしたことか心持ち面を伏せるようにしながら脇へよけて通ったのだ。 実際、おかしな事になって来たものである。

夕方、西荻から善福寺池の方まで足をのばしてみたが、なかなか快適であった。 善福寺池は暫く見ないうちにすっかり修復され一段と垢抜けした感じだった。

(注: 一体何のためのストだったのかすら覚えていない。 多分、寮費値上げ反対か何かだったのでは・・・ 所詮、学生運動なんてものは自治会の存在理由を示すための騒ぎに過ぎないと思っていたし、また実際そんなものだった。
Par. とは例のパラソルの女の子のことで、次第に気になる存在になりつつあったが、私などとは全く不釣合いな都会的な女性だったので、遠くから見ているだけの憧れの対象にはなり得ても、本気で近づける相手ではないと最初から割り切って・・・割り切ろうとして?・・・いた。 久し振りに善福寺池に行ってみたのも、そうすることで気持ちを吹っ切ろうとしたのかも知れない。)

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1961.5.30(火) 美女軍団への NATO の抵抗

地学の時間、例のパラソルの女の子が・・・
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今日はまた 肩も露わな薄い服を着たきりで、綺麗なのは相変わらずだがその服装には相当の抵抗を感じざるを得なかった。・・・
・・・・・・
彼女の顔や態度には好ましい点の方が多いのだが、それとあの大胆な服装とはどうしても一致しがたいように思われてならない。

(注: パラソルの女の子とは、1961.5.6(土)の日記 "神宮外苑まで出かけたものの ・・・" で触れた Azalea のことである。 抵抗を感じながらも無視できなくなりつつあった。
赤坂でカラオケレストランをやっている中高生時代の悪友から、"関口は大丈夫だろうか" と心配されたほどの NATO だった私にとって、彼女のように開放的な女性は魅力的であればあるほど、人生を共に出来そうには思えなかった。
そのことは、1961.5.16(火)の日記 "駒場の一日・・・統計学やら女性への関心やら" にも書いた。)

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1961.5.28(日) いつもの散歩

午後、井の頭公園で二、三時間遊ぶ。

(注: 誰も連れはいなかった。 気楽と言えば気楽、侘しいと言えば侘しい休日だった。 いつもは、立教女学院の塀に沿って、用もないのに三鷹台の駅まで足を延ばしたのだが・・・)

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1961.5.27(土) 授業より女子学生?

地学の時間、後ろから2列目に座っていたら、後から例のお茶のみ場の一件の女の子がすぐ後ろへ席を採った。 (べつに振り返って見たわけではないので、講義が終わって室を出るまではきがつかなかったが)・・・
彼女はどうも僕を意識しているように見えるのだが、この女(ひと)の場合、常に男子学生一般に対して強い関心を持っている様子が窺われるから、関心と言ってもほとんど特別の意味を持ってはいないと見るべきだろう。・・・

放課後飯田橋へ行き、またター坊たちと愉快に遊んで前歯の治療に一段落つけた後、・・・

注: 淡々と書いているが、結構目立つ女性だったから、毛嫌いされていないらしいことだけでも悪い気はしなかった。
飯田橋へ行ったのは、兄がインターン生として登院していた日本歯科大学病院で、兄の実習ケースを兼ねた治療を受けていたからである。 この時治療してもらった前歯は 59 年後の今でも健在である。
ター坊云々については全く記憶がなく、何のことやら全くわからない。

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1961.5.25(木) せっかく席をとってやったのに・・・

・・・ さて4限の露語に出て杉山を待ったが何時になっても来ない。 仕方なく諦めて近藤や大竹と、かの "スチュワーデス" と通路を隔てて同じ列に席を取った。 彼女のこちら隣には、先日、東大前のホームで一緒に話をしていたのと同じ人物が座ってなにやら話していたが、同級生か、何かであろう。 彼女の方は始めて 900 番教室で授業を受けた時(我々は2階にいた。)のように、時々両腕を机上に折って、その上に顔を伏せていたが・・・

(注: "スチュワーデス" と言うのが、その後我々の知る所となった "元スチュワーデス" のことか、それとも杉山の言う "インスタントコーヒー" 改め "スチュワーデス" のことだったのか日記には書いてないのではっきりしないが、"元スチュワーデス" が露語に出ていたのを見た記憶はないし、席を採ってやった経緯から行って多分後者だろう。 まだこの頃は全てが噂の域を脱していなかったので、ややこしいこと夥しい。)

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2011年7月4日月曜日

1961.5.24(水) "スチュワーデス"

雨が降ったのでテニスは出来ず、330番で高島先生の欧州視察団を聞くことになった。
その後、例のごとく大竹らとお茶のみ場へ行き、また雑談を楽しみ、時間が来たので一緒に出たとき、ちょうどアーケードの方へ例の "スチュワーデス" が行くのが見えたので、杉山に知らせると、「おお、あれだ。 しもうた・・・」 と言った調子で実に愉快だった。
四時限は杉山に付き合って生物の講義を聴いたが、生命現象についてかなり詳しいことが説明され大変興味深かった。
また明日は露語の時間、"スチュワーデス" の傍に席を取れるよう計らってやる約束をしたが、果たしてどうなる仕儀と相成るか興味津々といった所である。

(注1) 高島教授の話で記憶に残っているのは、彼がこれから Bach の墓参りに行くといったら花屋の主人が Euer Bach! といって感激し、只にしてくれた話、ある日本人の哲学者がレストランのウェートレスに注文の料理があるかと聴いたら "Selpstverstaendlich!" と即答したのに驚き 「さすがドイツでは、田舎レストランのウェートレスでも "自明的" と言う哲学用語を知っている」 と言って感激したという笑い話の2つである。
(注2) "スチュワーデス" とは、彼がそう思い込んでいただけで、暫く前までは "インスタントコーヒー" と呼んでいた女子学生のことである。学年やクラスが違うだけでその位、情報が錯綜していた。 今の東大生には考えられないまどろこしさかも知れないが、当時は、むしろそれが普通だった。そういえば杉山も私も地方男子校の出身だったから、その所為も多分にあったかも知れない。
(注3) 生物の講義に痛く感銘を受けたかのごとく言っているが、いささか失望したことも確かである。 それは、意識現象に実体は無く、"脳内化学反応の反映に過ぎない" と言ってお茶を濁していたことだ。 そんなことは当たり前で、問題は、その "反映" のメカニズム、どのようにして意識が発生するかではないか。 それが分からないからと言って "実体が無い" とは何事だと言いたかったことを思い出す。

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1961.5.19(木) 噂の女子学生たち

露語に杉山が出てきたので何かと思えば、例によって例の如し、彼のいわゆる "インスタントコーヒー" とかいう女の子がお目当てだったそうだが、それなら僕も少し気を利かせて適当な所へ席を取って置いてやるのだった。 しかし、帰りに大竹から聞いた話は、それこそ予期しない驚くべきものだった。 ・・・

(注: "インスタントコーヒー" というのは、その年、大挙して駒場に入ってきた女子学生の一人で、お茶のみ場で持参のインスタントコーヒーを淹れて一服していたのを見て杉山が付けた符牒である。 噂によると湘南高校一の美人だったとかいうものもいたが、われわれ田舎者には知る由もなく、あれこれ無責任に噂していた。 とにかく美女は一杯いたが誰が誰やら一般の学生には区別が付かず、一時は杉山も例の茅総長が入学式で言及したとか言う日航 "スチュワーデス" をやめて入ってきた女の子のことだと思っていたくらいだ。たしかに、みんなが番茶をすする脇で "インスタントコーヒー" を淹れるところなどは "元スチュワーデス" に相応しいと言えばいえた。 "帰りに大竹から聞いた話" と言うのは杉山に MK さんの話をしたら狼狽していたと言うものだが、驚いたのは彼が MK さんに好意を持っていたことではなく、彼でも狼狽することがあるのかと言うことであった。 これ以上書くと、近頃はプライバシーがどうとか言う人が出てくるのでやめて置く。私に言わせればこの程度のことは気心の知れた悪友仲間の与太話に過ぎないと思うのだが・・・)

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1961.5.17(水) 東大生の体力

・・・ ところで今日の体力測定では全く情けない思いをした。 懸垂2回、百m走15秒6 などというのは、東大生としてもお話にならない成績だそうで、今更ながら自分の体力の限界というものを思い知らされた。
しかし、更に驚いたのは一通り済んで点数換算に入ることになり、教官のところへ杉山と一緒に行く途中、土堤の上を見ると、5、6 人の女の子と一緒に MK さんの姿が見えるではないか。 顔には出さなかったが杉山も内心驚いたに違いない。
とにかく今頃、MK さんが運動着姿でこんな所にたっているなんて考えられないことで、暫くは人違いかと思ったほどだ。
しかし、そのうちに大竹が、あれは ワンゲルだというのを聞いてやっと納得がいった。・・・

(注: 今更ながらと書いたのは、中学時代毎日暗くなるまで陸上部の連中と一緒に練習していて、月を追って旧友たちに差をつけられていった経験を思い出したからだ。 私が有名人の "努力と根性" 論に傲慢さと偽善を感じるようになった所以である。
杉山というのは駿台予備校で私や MK 嬢と同じクラス・・・といっても 5百人の大部屋だったので口をきいたこともなかったが・・・だった男で駒場でも同じクラスになったので、彼が MK 嬢に好意を寄せていたことは知っていた。
大竹というのはいつも一緒に行動していた仲間の一人で、彼自身ワンゲルの部員だった。
今頃、MK さんが運動着姿でこんな所にたっているなんて考えられない・・と書いたのは、そのくらい彼女がお嬢さんタイプだったからだ。 駿台時代から、きっとどこかのお嬢さん学校の出身に違いないと思っていた。)

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