2限の木村さんはサボって講堂前の芝生でゼミの予習をした。 昼休みには期待通り、彼女達(R と、それから。2月に駒場の図書館で隣り合って勉強した人 ‐ L と呼ぶことにしよう ‐ も一緒だった)が、10m くらい離れたところに腰掛けて話していた。
ゼミでは東海電極の人事課長をしていると言う先輩が来て、いろいろ説明していった。 来週は、大和証券かどこかから来るとのことだった。
夜、兄が来て母の着替えを置いていった。 亀田さんが来たら、今度は昼間の先生が魚の目(右手拇指)の手術をしたので出られないため、その代わりと言うわけで、結局、今月一杯くらいは PM 9時までやらなければならないとのことだった。
(注1): L と呼ぶことにした女性は、多分あの人だろうというくらいの朧げなイメージはあるが、実際に何と言う名前の人だったか、ましてや今どうされているかなどは一切知らない。 L と言うのも 単に R と区別する都合上適当につけたとも思えないので、多分、Iily か Lotus 、恐らく後者に因んだのかと思う。 何れにせよ、私にとっては、"駒場・本郷の一期一会" の中で、欠かすことの出来ない群像の一人である。
(注2): 当時の大企業の新卒採用の解禁が何時だったか知らないが、この頃になると毎週のように先輩が今で言うリクルートにやって来た。後になるほど有名所が登場し、最後に来たのが日銀だったと思う。 それまで大石ゼミの優秀な先輩は大抵学者になってしまっていたので、大蔵省からは、最後まで来なかったと思う。 ただし、後輩には何人も大蔵省組がいたから、これは大蔵側が経済官僚の採用を増やさざるを得なくなったからだろうと推察する。
因みに後年富士通時代に、日銀との付き合いの中で、チェ-ス・マンハッタンビルの42階にあったニューヨーク駐在員事務所を訪ねた際、予ねて知り合いの所長が、"大蔵の事務所にも寄って見ますか" というのでどうせ来た序でだからと応じたら、何と廊下側の看板が別々になっているだけで、内部は細い通路で繋がっていたのには、驚くと同時に感心した。 日銀・大蔵の連携はマスコミが言うほど悪くはないなと安心したものだ。
さらに驚いたのはそのとき応対に出た大蔵の若手と話しているうちに、相手が突然、笑顔になって "若しかしたら大石ゼミの先輩ですか・・" と訊いてきたことだ。 後輩達も結構やるじゃないかと心強く思ったことを思い出す。
(注3): 夜、兄が母の着替えを持ってきたのは、子宮筋腫の手術で慈恵に入院していた母に肝硬変が発見されたからだ。 これが母の慈恵医大との長い付き合いの始まりで、当時、絶対助からないと言うのが学会の常識だったから、以降、30数年間、何時、その日が来るかと我々家族は戦々恐々としながら過ごすことになる。
亀田さんというのは、兄を可愛がってくれた大学の先輩で、後に教授になった人だが、この頃、経堂の開業医が病気で倒れ、母校に助力を求めてきたので、夜間だけ代診を引き受けていた。 そこで、国家試験の結果待ちだった兄を研修医として誘ってくれた次第。 この時の言わば個人指導のお蔭で、兄の技量は格段に向上し、私もたいへん恩義を感じている。 とにかくこの50年間、兄の治療で痛い思いをしたことがない。
それにしても、1995年に学校法人東京農大傘下の東京情報大学に転職し、この経堂駅から辞令を受け取りに行くことになろうとは、まさに 奇縁としか言いようがない。ラベル: 1962.5.8(火) 本郷の一日・・ゼミの先輩がリクルートに来た!