2010年4月25日日曜日

1960.4.22(金) 流される日々

昼食のパンを買いに行ったら、北寮の売店はものすごい混雑でなかなか買えない。 ようやくもう少しというところまで来たとき、前にいる女の子を見たら、それがMKさんだったのには驚いた。 一瞬どうしようかと思っているうちに・・・

(注: 北寮というのは、かつて駒場にあった汚いので有名だった、或いはそのことを自慢にしていた3っの寮のうち一番北側にあった寮のことである。 ここでもMKさんのことが出てくるが、その後本郷に移って学部が別々になると共に行き会うことも殆ど無くなり、日記にも滅多に登場しなくなる。 それでも年に数回か御茶ノ水からのバスに乗り合わせることがあり、その時の気持ちが日記帳に記されている。 それほど惹かれていたのに、何故 ただそれだけのこと で終わってしまったのか説明するのは難しいが、強いて言えば私に勇気と自信が無かったせいだと言うしかない。 しかし、人生とはそういうもの ではないだろうか。)

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2010年4月15日木曜日

1960.4.15(金) 初登校?

(注: 実を言うと初登校日がいつだったのか、はっきり覚えているわけではない。 ただ日記帳にはそれらしき情景が書かれている。)

アーケードの掲示板を見に行ったら、大勢の学生がごった返していて中々前へ出られない。 後ろの方から伸び上がって見たりしているうち、ふと前を見ると、数人の女子学生と一緒に話しているMKさんが目に入った。・・・

(注: 恐らく二度と会うことは無いだろうと思っていた予備校時代のマドンナとの再会の瞬間である。 彼女の存在が、私の駒場生活に彩を添えてくれたことは確かだが、その後の2年間に直接口をきいたことも無く、今となっては遠い日の憧れの女性の一人である。)

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2010年4月12日月曜日

1960.4.12(火) 東大入学式

入学式に出席するためお父さんと一緒に下宿(注: 西荻、井上喜一郎氏宅)を出た。電車がそれほど込んでいなかったのは幸いだった。本郷安田講堂裏でバス(注: 御茶ノ水発、東大行き 15円?) を降り・・・

(注: このあと阿部達雄君父子に会ったり、お互いに記念写真を撮りあったりしたことは確かだが、予備校で一緒だった誰彼、とくに女性を見かけたりしたこと以外、日記には何も具体的なことは書かれていない。入学式で、もともとあまり関心の無かった茅総長が何を話したのか、いや、そもそも総長の名が何と言ったのかすら、さらに、総長告示なるものが有ったのかすら記憶に無い。無関心もここまで来れば大したものだ! 参考までにインターネットで 『東大入学式』 を検索したところ、あまりにも大袈裟なのに呆れかえった。 どう考えても総長を含む大学側の堕落、迎合としか思えない。 こんなことで UCBerkeley や Oxbridge, 果ては、北京大、清華大に対抗できるのだろうか? まあ少子化に加えて定員5割増では仕方ないか。きっと中には志の高い青年たちが混じっているに違いない。よしんば、それが外国人だったとしても!)

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2010年4月10日土曜日

1960.4.10(日) 父が上京、親戚に挨拶。

朝から叔父さんの所に出かけたら、和雄さん、昌子さん兄妹も来て、初めて僕たち兄弟と4人が一堂に会することになった。
和雄さんもとうとう銀杏バッジを捨て、社会人としての第一歩を踏み出したわけだ。楽しくて仕方がないといった状態でまったく快活そのもの、見ていて楽しくなるほどだった。
フルートを習い始めたそうで、手にとってしきりに眺め回していたが、お父さんに “ブランデンブルグコンチェルトをモエーズがどうの・・・” と薀蓄を披瀝されて驚いていたようだった。

(注: 普段、私たち兄弟が、錦糸町の叔父のところに寄っては、栄養を補っていたので、お礼と今後もよろしく頼むという意味で、私の入学式に出席するついでに父が上京したときの話である。 和雄さんというのは、義理の叔母の従弟で、私の桐高入学と入れ替わりに一浪して東大に入り、二浪した私とまたまた入れ替わりに東大を卒業した桐高では有名だった秀才、斉藤和雄さんである。 昌子さんというのは、その妹でピアノに長じ、音大に行くかかなり迷った末、津田塾に入った桐女きっての才媛であった。 流石の秀才もこと音楽の話になると父の右に出るわけには行かなかったようだ。 日記にはこのあと浅草に住んでいた母の2番目の妹、治子叔母のところへ挨拶に行った記述がある。治子叔母には、栄養だけでなく経済面でもずいぶん助けてもらった 。)

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