2010年5月31日月曜日

1960.5.31(火) 青春時代の 真ん中は 道に迷っているばかり

Flaulein MK・・・
Du bist mein eins und alles.
Du bist wie eine Blume.

(注: 5月31日から6月14日までの間は、クラシックの曲名だけの日々の間に、時折、MKさんの姿を何処でいつ見たかという記事が出てくる。 そのことを詳しく書くのは気恥ずかしいし、ご本人にも失礼があっては申し訳ないので、以後、原文を載せるのは極力差し控え、専ら曲名の羅列だけにとどめたい。)

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2010年5月24日月曜日

1960.5.24(火) ラジオで聞いた曲

5月23日(月)

ベルリオーズ ベンデヌート チェルリーニ序曲
ベイヤー(ヨセフ) 舞踊曲 人形の妖精
レスピーギ 教会のステンドグラス
メンデルスゾーン フィンガルの洞窟


5月24日(火)

南国の薔薇
蝋燭序曲
アンネンポルカ
春の家
ウィーンの森の物語

(注: 両日ともこれだけしか書かれていない。授業に出たのかどうか、当時のノートを見れば判るかも知れない。)

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2010年5月20日木曜日

1960.5.19(木) クラシック三昧

ベートーベン 交響曲第5番ハ短調
ワグナー   ニュールンベルグの名歌手
           前奏曲 従兄弟達の踊
           名歌手の入場(入学式で東大管弦楽団が演奏していた)
メンデルスゾーン 弦楽8重奏曲変ホ長調
ベルリオーズ ファウストの業罰から
           ハンガリー行進曲



(注: 毎晩のように寝床で聴いていたラジオ番組の曲目を日記代わりの手帳にメモして悦に入っていたものだ。)     

1960.5.15(日) ノンポリ学生の無聊の日々

(注: 1960年と言えば彼の有名な安保騒動の真っ最中だったはずだが、私の日記には6月15日に例の何とか言う女の子がデモの最中に踏み殺されるまで1行も出てこない。 そのくらいノンポリもいいところだったということになるが、さりとてまったく関心が無かったわけでもなく、たしかデモにも3回だけ参加した記憶がある。
1度目に参加したときは、おそらくは家庭の事情で大学にも進学できなかったに違いない若い機動隊員たちを下品な言葉で罵る男がいたので大声で 『止めろ』 と怒鳴りつけて黙らせた。
2度目の時はいわゆるジグザグ行進の馬鹿らしさについていけず途中でぬけだした。
3度目はキャンパスでロシア民謡の合唱を指導している学生がいたのでそれに釣られて参加したものの、あとで何やら怪しげなセクトのオルグだと言うことに気が付いて “これはヤバイ” と後悔した。
それ以来、1度も参加していない。
クラスメート には、社会党右派・・構造改革派・・の盟主 江田三郎の息子 だと言う男もいて授業の始まる前に演説を打っていたりしたので、それなりの事情は知っていたが、クラスの大勢は 『俺達は勉強するために大学に来たので政治活動のために来たんじゃない!』 と言う雰囲気だったから、ノンポリの私でも居心地が悪いと言うことは無かった。
それなのに何故デモに参加したのかと言えば、いまや参議院議長になった江田君が今年1月21日の日経2面で言っているように、『ある種の世代的な共通体験というか・・・高揚した一体感を自分もしっかりと踏まえておきたい、そんな気持ちがあった』 ことは確かだ。 故ダレス元国務長官も、当時の新聞の取材に対して、 『自分も学生時代に反政府デモに参加したことがある。 そんなに心配することは無い』 といっていたのをおぼえている。

というわけで、6月14日までは、毎晩のようにラジオで聴いていたクラシック音楽の曲目の羅列が続く。)

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2010年5月17日月曜日

1960.5.11(水) 中学時代の級友

お客様だと言うから誰かと思ったら金子さんだったので始めは何と言って挨拶したらよいのか見当も付かず、いろいろ訳の判らないことを喋ってしまって全く思い出しても気が引ける。・・・駅の前などで1時間以上も立話するなんて・・・融通がきかなすぎる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・金子さんとは、昨年、桐生の保健所で会って以来、1年以上経って再び相まみえたわけだが、実際こうも変わるものかと驚かざるを得ない。 ・・・まったく意外に・・・と言うか洗練されていて、こちらが引け目を感ずるくらいだった・・・


(注: 金子さんというのは、1960.1.2(土)新しい下宿先 の注欄で触れた桐生市立西中学校時代の級友金子安江さんのことである。クラスでは私と交互に級長を務めるなど、それなりに“できる”女の子だった。

彼女はいったん某女子大に入学し寮生活を始めたものの、旧弊な学風に馴染めず半年くらいで退学し、翌年の春、早大文学部に入り直していた。 その際、私の桐生の自宅に相談の手紙をよこした経緯があるが、実際に会ったのは、桐生の保健所へ入試用の健康診断書を取りに行った時以来で、その時は“1浪”受験生らしく流石の美少女も形無しの風情だった。 ・・洗練されて・・・云々・・は、西荻の下宿先に訪ねてきた彼女が、そのときの印象からは想像も付かない変わりようだったからである。

彼女は、その後、サンパウロ大学で柔道を指導する夫君と共にブラジルに渡り、英葡2ヶ国語をマスターして帰国する。 夫妻ともども桐生の実家で暮らして居たが、3年前に夫君を亡くし現在は一人暮らしで頑張っているようだ。 市内の高校で教える傍ら、彼の有名な小泉町の教委から請われてブラジル人小学生の面倒を見ていたが、現在は体調を慮って専ら自宅から程近い桐生第一高校で英語の受験指導に当っているそうだ。

彼女がフランス人形のように可愛らしい乳飲み子を抱えて夫君の待つブラジルへ発つのを、1960.1.2(土)新しい下宿先 の注欄で触れた鴨下女史と2人で羽田空港で見送ったのは40数年前のことだ。 )

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