2011年11月18日金曜日

1961.10.25(水) もう一人の親友 小西靖生君

洗濯してから10時半ごろ学校へ行ってみたが・・・
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駅で小西と一緒になった。 母のことを話したら大変心配してくれた。 自分が病気の苦しみを経験しているため、一層、身につまされるところが有ったのだろう。

渋谷で別れて病院へ行ったら八重さんが来て、そのうちに早川田のおばあちゃんが来ると言うので、片山さんの分と2人前のシュウマイを平らげながら待つことにした。
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(注: 小西とは、経済学に暗い私が、本郷に行ってからどうしようかと迷っていた時に、近経なるものがあり、中でも大石教授が理論経済学の第一人者だから一緒に大石ゼミに入ろうと誘ってくれた小西靖生君である。 彼とは妙に馬が合い現在に至るまでの親友のひとりとなった。 大石先生に拾ってもらうためには予備知識が必要だと一緒に近経の書物をどっさり持って伊豆の戸田寮に篭ったりしたが、勉強そっちのけでボートに乗ったり、卓球に興じたりしていたことを思い出す。 兵庫県加古川出身の彼と群馬県桐生出身の私では、話す言葉の抑揚が全く異なり、暫くの間、渋谷の喫茶店で向かい合って話していても、一々聞き返さなければ何のことやらさっぱり分からなかった。 彼が大病したことは、今日この日記を読むまで忘れていた。いつ何の大病をしたのかも未だに思い出せない。

八重さんというのは、慈恵医大病院の看護婦をしていた母の末妹、旧制館林高女最終年、新制館林女子高校一期生として答辞を読んだ八重子叔母のことである。 私とは年が近かったので何かと発破をかけられたが、後年、私が富士通総研時代に山田社長との共著を出版した時は、「益照に先を越された」と悔しがり(?)、その所為でもないだろうが、静岡県看護協会会長を務める傍ら、看護学の教科書シリーズを出版したり、八面六臂の活躍をしてのけた。 早川田のおばあちゃんとは、母の実母で渡良瀬村字下早川田の実家から駆けつけてきた祖母タツであるが、父益男が初対面の時以来、感服していた賢婦人であった。

片山さんというのは、同じ子宮筋腫で入院した二人部屋で同室となった片山秀子さんのことである。 ご主人共々三鷹台団地に住んでおられたので、その後も時々お邪魔させていただいた。 母とは同病相哀れむというより、ともに社交的な点で気が合ったのか、その後無二?の親友となった。 子供の頃から夏川静江に可愛がられていたそうで、その関係からか芸能界に知己が多く、そうしたお付き合いの中で、たまたまスター街道驀進中の酒井和歌子さんと同席したことがある。 美人女優とはこういう人のことかと驚嘆したことを思い出す。)

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1961.10.24(火) 教科書を卸値で入手するには・・・

体育実技はソフトボールにした。
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経済政策の後、大竹、黒川、杉山の3人と神保町へ出かけ、明文堂へ行ってみたが、目指すものは何もない。 おまけに、小売店へ行ってくれなどとお説教されてしまったので、早々に退散し、鈴木書店へ行ってみた。 見咎められぬようにと近くの蕎麦屋で黒川がシャツを脱ぎ、杉山がそれを着て一人で乗り込むことになった。 程なく彼が3冊ばかり抱えて戻ってきたが、さっき店の前でうろうろしているところをやはり見咎められたのか、あれこれと根掘り葉堀り聞かれて閉口したそうである。 何という書店かと言われ、渋谷の立花書店だと答えたそうだが、まったく冷汗ものである。 あと何冊か注文しておいて貰うことにしてきたと言うが、自分は本人の代理で、今度は、立花さん自身が来ると言うことにしてあるそうだから、この次行く時はよほど度胸をすえてかからぬと尻尾を出す恐れがある。

(注: 今読み返しても冷汗ものである。 いったい何処までが本気で何処から先が遊びなのか、今となっては判然としない。 実際、100円でも小遣いとしては馬鹿にならなかったのは確かだが・・・)

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2011年11月10日木曜日

1961.10.21(土) 経済学のハンデを語学でカバー?・・・就活では通用せず(2年後に知る)

昼休みに高橋、小柳に会った。 小柳とは木曜4限の小林先生の仏語を択る約束をした。 露語は同じ時間なので択れそうもない。
帰りに、中村と一緒になり、二人で神田の卸売問屋の所へ行き、大分割安で仕入れることに成功した。 中村の手腕には舌を巻くほかない。 神田駅前で別れ東京駅まで歩き、南口から等々力行きで病院まで行ってみた・・・
帰りは渋谷まで歩き通し、途中二軒ばかり、古本屋を覗いてみたが求める経政の教科書は見当たらなかった。
笄町の交番の辺りで、止せばよいのに左に折れ、近道をしようなどとしたおかげで道に迷い、赤十字産院前から更に迷って、遂に恵比寿に出てしまったのには驚いた。 全く疲労困憊の極で、あれほど渋谷の灯を懐かしく見たことはなかった。 高円寺、阿佐ヶ谷でもやはり見つからなかった。

(注: 当時から稼ぐより節約すると言う内向きの性格は、未だに変わっていない。 要するに人と交渉するのが嫌いなのだ。 3年前に発症した急性A型大動脈解離の後遺症で全身に及ぶ虚血性の皮膚~筋肉~臓器不全に悩まされているが、個々の症状が緩慢ではあるが軽快しつつあるのに、毎週のように襲ってくる鬱症状には一向に回復の実感がないのも、幼児からのこうした気質が災いしているのかも知れない。

病院とは、母が肝硬変の予後観察とその過程で見つかった子宮筋腫の手術のため入院していた慈恵医大病院のことである。)

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2011年11月4日金曜日

1961.10.20(金) 経済政策総論・・・マル経教授の陰湿な懲罰

620番で高橋と一緒になった。四十分も経つのに先生が現れないので、休校と見て900番へ行き、杉山、武藤らと一緒になった。 経済政策総論の横山教授は、かなり、資本主義に批判的であるように思われる。
テントの所へ行ってみたが、まだ語学の教科書は何も来ていない。 そこで午後の独語には出ないことにし、杉山、黒川、武藤と4人で、まず10円ニュースを見、(出てきたところで、東、奥原、門野の3人に会った)、次にブラジルで60円也のコーヒーを飲み、3時間以上粘って引揚げ、渋谷駅で別れた。
900番で杉山からその後の成り行きを聞いたが、H から返事(2度目の手紙に対する)が来たそうで、案外脈のありそうな様子だった。旨くいくことを祈るや切である。
それにつけても明日こそは P の姿を見たいものである。

(注: 横山教授のことに軽く触れているが、実はガチガチのマルクス主義者で、彼の意向に沿わない答案には無条件でをつける人物であることを後で知った。 何しろ毎年同じ問題を出すばかりか、クラスの誰だったか、あとで、一部何10円かの模範答案を手に入れて見せてくれたが、私にはまったく受け入れられない論旨がぴったりノート1頁分に収まっており、その末尾に、ご丁寧にも 「以上、優」 と書かれていたのには、唖然とした。 当時の東大が、マルクス主義布教の大本山だったことを改めて認識させられた。 この調子で2年の後期からは、必修科目の経済学でかなりを稼がせてもらうことになったが、それがどういう意味を持つかを知ったのは、4年生になって、就職活動を始めた時である。 何と採用側は、2年後期からの成績しか見ないことになっていたのである。 そんなこととは露知らず、擬似恋愛に現を抜かしていた自分の要領の悪さと言うか、世間知らずの子供っぽさに呆れはしたが、迎合する気はさらさらなかった。)

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