1961.10.25(水) もう一人の親友 小西靖生君
洗濯してから10時半ごろ学校へ行ってみたが・・・
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駅で小西と一緒になった。 母のことを話したら大変心配してくれた。 自分が病気の苦しみを経験しているため、一層、身につまされるところが有ったのだろう。
渋谷で別れて病院へ行ったら八重さんが来て、そのうちに早川田のおばあちゃんが来ると言うので、片山さんの分と2人前のシュウマイを平らげながら待つことにした。
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(注: 小西とは、経済学に暗い私が、本郷に行ってからどうしようかと迷っていた時に、近経なるものがあり、中でも大石教授が理論経済学の第一人者だから一緒に大石ゼミに入ろうと誘ってくれた小西靖生君である。 彼とは妙に馬が合い現在に至るまでの親友のひとりとなった。 大石先生に拾ってもらうためには予備知識が必要だと一緒に近経の書物をどっさり持って伊豆の戸田寮に篭ったりしたが、勉強そっちのけでボートに乗ったり、卓球に興じたりしていたことを思い出す。 兵庫県加古川出身の彼と群馬県桐生出身の私では、話す言葉の抑揚が全く異なり、暫くの間、渋谷の喫茶店で向かい合って話していても、一々聞き返さなければ何のことやらさっぱり分からなかった。 彼が大病したことは、今日この日記を読むまで忘れていた。いつ何の大病をしたのかも未だに思い出せない。
八重さんというのは、慈恵医大病院の看護婦をしていた母の末妹、旧制館林高女最終年、新制館林女子高校一期生として答辞を読んだ八重子叔母のことである。 私とは年が近かったので何かと発破をかけられたが、後年、私が富士通総研時代に山田社長との共著を出版した時は、「益照に先を越された」と悔しがり(?)、その所為でもないだろうが、静岡県看護協会会長を務める傍ら、看護学の教科書シリーズを出版したり、八面六臂の活躍をしてのけた。 早川田のおばあちゃんとは、母の実母で渡良瀬村字下早川田の実家から駆けつけてきた祖母タツであるが、父益男が初対面の時以来、感服していた賢婦人であった。
片山さんというのは、同じ子宮筋腫で入院した二人部屋で同室となった片山秀子さんのことである。 ご主人共々三鷹台団地に住んでおられたので、その後も時々お邪魔させていただいた。 母とは同病相哀れむというより、ともに社交的な点で気が合ったのか、その後無二?の親友となった。 子供の頃から夏川静江に可愛がられていたそうで、その関係からか芸能界に知己が多く、そうしたお付き合いの中で、たまたまスター街道驀進中の酒井和歌子さんと同席したことがある。 美人女優とはこういう人のことかと驚嘆したことを思い出す。)