2011年6月23日木曜日

1961.5.16(火) 駒場の一日・・・統計学やら女性への関心やら

今日の統計学には全く呆れた。 こんなに判らなくなるとは思わなかった。 このままでは如何なることやら全く心細い限りだ。 折を見て徹底的にやり直さねばなるまい。

(注: 結局、期末試験の結果は "良" で終わったが、1年後に本郷に行ってからは、理論経済学の基礎だと言うので、一念発起して頑張り、宮沢教授の数理統計学で "優" をとって何とか雪辱を果たした。 その結果、つくづく判ったのは何かと言うと、統計学が大数の法則を前提とする以上、統計数値が教えてくれるのは飽く迄も大量の母集団における傾向であって、個々の構成要素に関しては何も語ることが出来ないということであった。

そのことは、私自身、10年前の前立腺癌全摘手術の際、改めて実感させられることになった。 つまり、手術の成功率や予後に関するデータも、全て医師や行政のように、多数の患者における割合を問題にする立場の人々には有意義であっても、一つの体と命しか持っていない個々の患者の傾向については何も語っていないという事実である。

なぜなら、個々の患者はたった一人であって大数の法則が成り立つ余地がないからだ。 つまり、成功率は "1" か "0" だということである。 このことを、きちんと言ってくれる医師や行政担当者はいないし、実際、殆ど知っているかどうかすら覚束ない。

更に悪質なのは知っていながら言わず、逆に悪用する輩が多いことである。 いわゆる、統計の嘘がまかり通っているのは何も経済や政治ばかりではない。 その点では、軍事作戦やスポーツにおけるリーグ戦のように、一人一人の生死や一戦ごとの勝敗は如何でもよく、全体としての勝率が問題になる場合は大いに有効である。)

一時限が終わったのでお茶のみ場に行っていたら、MK さんが化学教室の方から来るのが見えた。 また昼休みに食堂へ行く途中、300番の方から来た所に出くわし、・・・・
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放課後、駅で電車を待っていたら矢内原門の方から・・・・・
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・・・・・あの時の(丁度、ホームへ入ってきた電車に乗ろうとして駆け出した時の )あの顔は本当に美しかった。 それに比べると昼休みに僕のそばに来た女の子(常識的には相当の美人だろうが)などは全く問題にならないように思われた。

(注: 昼休みに僕のそばに来た女の子とは、この春つまり 1961.4 一斉に文Ⅱの仏語クラスに入学してきた 10 数人の女子学生たちの一人で、前にも書いたがキャンパスでも話題になっていた女性である。 いかにも "なにげ" な書き方をしているが、いわば美女軍団への NATO の抵抗のようなものだった。

NATO とは例の北大西洋条約機構の頭文字であるが、 当時の米国の女子学生の間では、話し合いばかりで何もしてくれない "No Action Talking Only" と言う意味で、内気男に対する蔑称として流行していた。 "Talking Only" が蔑称なら、私など "Lookng Only" はどう呼べばいいのだろう。)

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2011年6月19日日曜日

1961.5.15(月) 旧ソ連宣伝映画への尊大な批判

先月25日と丁度同じように矢内原門を入った所で、MK さんの後姿が見えた。 殊更後を追うのもどうかと思い図書館脇を曲がっていく後姿を見送って、北寮の方へ行ってみることにした。 丁度、朝食を摂ってなかったので売店を覗いたら、まだ開いていないので寮食で済ませた。(35円也)
(注: 時にはこうして MK さんのことを頭から振り払って学業に専念したこともあるらしい? 丁度とは、丁度売店の前だったと言うこと。 これが駒場寮生以外、つまり通学生の日常の行動パターンだったかどうかは知らない。)

四時限の仏語はサボって "戦艦ポチョムキン" を見た。 至極感動的な場面が展開された(訳なのだろう)が、あの位のことはいままでに世界中で無数に繰り返されたことであり、あの程度の行為、あるいは思想感情を至純至高のものと讃えているようでは、世界平和(これも問題の多い言葉だが)などは到底達成されはしない。
(注: 駒場で自治会の連中か何かがオルグのために上映した旧ソ連映画に対する感想である。 ブログの見出しには "尊大な" と書いたが、それはそれとして、今でも当時の日記に書いた批判を撤回するつもりはない。)

帰りは堀籠と一緒になったが、ズボンを注文するのを思い出して、渋谷からまた引き返した。 結局、二千六百五十円也で一着頼んだが、旨く出来ればよいが。
(注: 堀籠とは、後に最高裁判事になった堀籠幸雄のことである。 まさかこんなに偉くなるとは夢にも想像しなかった。 彼は、あの頃からその位の志を抱いていたのだろうか。 法学に関心がなかった私が何も知らなかっただけのことで、当時の東大文一にはその位の可能性がごろごろしていたに違いない。 嘗ての帝大法学部の七光りと言うべきか! 東電やみずほのトップが無責任だと批判されるのも無理はない。 ズボンを注文しに戻ったところは駒場にあった生協の売店である。)
 

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2011年6月6日月曜日

1961.5.9(火) 桐生高校の同期生と再会

今日は、地学の講義で相対性理論について聴いたが実に興味深く、また有益であった。 将来、自分の進むべき方向がだんだんはっきりして来るようであった。
(注: 一寸かじっただけでこうだったから、今考えるといい気なものだった。)

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今日こそはと3時間目の終了する頃合を見計らって正門脇の芝生で待っていると、いつものように同級生の女の子と一緒に笑顔でなにか話しながら来るのが見えた。
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さて、通り過ぎてしまうと、とてもそのまま去るに忍びず、急いで矢内原門へ回り、正門から来る MK さんを何食わぬ顔で迎えることにした。

ところが、矢内原門を出て少し駅の方へ向かった時、後ろから叓子(ことじ)がやって来て話しかけたので・・・彼には悪かったが話題を誘導し、後輩、西原 云々と暗に僕の出身校その他を知ってもらうと言う僕としては最大級の知恵をしぼった訳であるが、果たしてどれだけの効果ないし意味があったろうか。
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(注1) 叓子・・・正確には古の下に又と記す・・・とは桐生高校の同期生でわたしと同じく2浪して文Ⅰに入ったのは知っていたが駒場で行き会ったのはこれが初めてだった。 NH 云々とは、その年の正月に桐生で開いた新人歓迎会に出席していた、多分現役で理Ⅱに入った後輩であるが、その時の話でたまたま彼と MK さんが同じサークルに所属していることを聞いていた。 それでこんな姑息な細工を弄したしだいであるが、"果たしてどれだけの効果"・・・などあったとは到底思えない。

(注2) 叓子とは、その後も何回か会ったような記憶があるが、あまりはっきりとは覚えていない。 法学部へ進学して某大銀行へ入ったことは知っていたから、いずれ仕事を通じてでも会う機会があるだろうと思っていた。 ところが先日、何かの通知(桐高昭和33年卒同窓会の出欠通知だったかもしれない)で彼が亡くなったと言うことを知った。 こうして級友たちが一人、又一人と鬼籍に移っていくのを風の便りに聴くと言うのは、寂しくもあるが同時に人生の最終章を閉じる準備をしておけと言う予告だと思えば心強いことでもある。

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2011年6月5日日曜日

1961.5.6(土) 神宮外苑まで出かけたものの・・・

外苑に野球を見に行く。 話にならない惨敗で恥ずかしいくらいだったが、心を合わせて応援しあうのは、実に楽しいものであった。 久し振りに高校時代を思い出し愉快であった。 Azalea の姿も見かけた。

(注1) 昭和30年の春の選抜で決勝戦まで行った "北関東の名門" 桐生高校の OB としては、 "話にならない惨敗" としか言いようのない無様な負け方だった。 6大学の中に残っている理由が判らないというべきか・・・。 しかし、クラスには "東大の負け試合を見たことがない" という幸運児もいたので、こんな体たらくでも勝つこともあるのかと半信半疑だった。 "つき" というのは恐ろしいものだ!

(注2) Azalea とは、この4月に大挙して入学してきた女子学生・・・殆どが文Ⅱの仏語クラスに属していた・・・の中でも特に目立つ何人かの一人で、我々上級生の間でも何かと噂に上っていた人のことである。 私が日記の中でのみ勝手に呼んでいた符牒で、日記に出てくるのはこれが初めてである。 この頃は未だ MK さんとは、比較する意識すらなかったが、この後、駒場を去るまでの一年間、正直言って心穏やかでなくなっていたことは認めざるを得ない・・・青春時代の真ん中は道に迷っているばかり・・・。 )

(注3) そういえば、この日から12年後の今日(昭和48年5月6日)は、妻との結婚記念日だった。 この日記に登場する人たちのことは全て妻と出逢う遥か以前の昔話である。

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