正午ごろ、金子さんから電話がかかってきて、一緒に神田まで本を探しに行ってくれという。 まあ、良かろうと言うので出掛けたが、あまり良い本がない。 そのうちに疲れたなどと言い出したので、いい加減にして決めて引き上げた。
(休憩・・・15日)
(続き再開・・・28日)
帰りに新宿で降りるとき、一人で帰るのはつまらないなどと言うので、こっちも少し話でもしたいおもっていたところなのでつきあうことにした。・・・
(注1: そのとき新宿でどこへ付き合ったのか覚えていない。 ただ、いつだったかはともかく、音楽喫茶・・ "田園" に行ったことや何とか言う "歌声喫茶" で騒いだ記憶は有るから、その時もそうだったかも知れない。 歌声喫茶というのは、当時、新宿や渋谷では学生の溜まり場として、有楽町や新橋では若いサラリーマンの憂さ晴らしの場として大いに繁盛していた。 しかし、私が唖然としたのは、その店で偶々同席した金子さんの上級生と言う男子学生の一言だった。 「・・・君は何回くらいトルコに行ったことがあるか・・・自分は定期券を持って毎週のように通っている・・・」。 言うまでもなくトルコとは、トルコ風呂、今で言うソープランドのことである。 そんなところに定期券で頻繁に出入りしていると言うのも想像を超えた神経だと思ったが、それ以上に恐れ入ったのは、そんなことを、金子さんや他の女子学生の前で公言する図太さだった。 なるほど、こういう剛の者たちに囲まれている金子さんが、ときどき、私のような人畜無害の男を呼び出す理由がわかったような気がした。早大政経学部の入試結果を見に行くバスの中で驚くべき体験をしたと書いたが、あれは満員バスの戸口に立って金棒に掴っている私の手の上に傍にいた女子学生が手を重ねて来たに過ぎない。 今回の驚きは、まさに次元を異にするものだった。)
(注2: 浪人時代、1年目は水道橋、2年目は御茶ノ水の予備校に通っていたから、神田の本屋街は隅から隅まで知っていた。 金子さんにつき合わされたのもその所為だろう。 この時は、たいした収穫は無かったらしいが、いつだったか思わぬ発見をしたこともある。
一つは、駿台予備校の日本史の授業で聞いていた "田口卯吉" の "日本開化小史" の初版本であり、まさかと思うほど薄い布表紙の所謂稀覯本だったが、薄汚れていたので、それこそ二束三文で購入できた。
もう一つは、私の祖父、関口益三郎が歯科医師の資格を取るため書生として師事した、日本歯科医専・・現:日本歯科大学 の創立者、中原市五郎 の伝記 "中原市五郎伝" であるが、私の1か月分の生活費より高かったので手が出なかった。 今でも残念に思っている。)
そうそう、もう一つあった。 "藤村記" である。 藤村と言っても島崎藤村のことではない。 華厳の滝から飛び降りたあの藤村操が妹宛に残した遺書のことである。 あれも買っておけばよかったと思う一冊である。) ラベル: 1961.1.15(日) 神田で本探しのお付き合い