1961.10.15(日) 母は強し・・・親の心子知らず。
10時56分のロマンスカーで3人(祖母、阿久津さん、私)で上京、まずお祖母ちゃんを無事叔父さんの所へ送り届けることが出来てほっとした。 あいにく叔父さんは、栗原の叔父さんと一緒に魚釣りに行ってしまい家には叔母さんしか居なかったが・・・
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お昼をご馳走になってから早々に慈恵にむかった・・・・
病室がわからず阿久津さんに別館の方まで無駄足をさせてしまい申し訳なかった。
話しているうちに兄や妹も来て大分賑やかになった。
母も嬉しかったのか(また、阿久津さんを喜ばせたかったのだろう)、皆で一緒に大丸まで出かけ・・・ 食事をして引揚げた。
タクシー乗り場で(病院へ戻る)母を見送ってから、一緒に B.S. (八重洲口に有った桐生行き東武急行バスのターミナル)に行き、阿久津さんを見送った。
丁度、近藤が自然休校で帰る所に出会い、一しきり話に花が咲いた。 四学期はしぼられるぞなどと脅かされ、前から覚悟していたものの改めて緊張させられた。
母のことといい、兄のケースのことと言い、この秋から冬にかけて我が家は最も多難な期に突入したようだ。
(注1): 叔父さんとは本所横川橋に住んでいたラバウル帰りの父の弟、栗原の叔父さんとは京成沿線に住んでいた母のすぐ下の妹、公子叔母の夫である。
(注2): 阿久津さんと言うのは、当時わが家に勤務していた看護婦の一人であるが、病身の母を助けて自発的に女中(今で言うお手伝いさん)仕事まで引き受けてくれていた奇特な女性で、当時の我が家には欠かせない存在だった。
(注3): 近藤と言うのは、桐生高校の同級生で、私より1年早く、文2に合格していたが、駒場では一度も会ったことが無かった。 東大生としては一年先輩に当るので、嘘か本当か知らないが一言脅かされたわけである。 実際には、結局どうと言う事も無かったが、恐らく学科の選択では文2の方が遥かに緊張を強いられたのではないかと想像できる。 自然休校とは、どんな情況を言い習わしていたのか覚えていない。 当時の駒場では1、2年を通して、1~4学期と言っていたらしい。
(注4) : 兄のケースとは、インターンでこなさなければならない症例を揃えることである。 日本歯科大学付属病院は、飯田橋駅前に威容を誇っている現在、症例に事欠くことなど、まず考えられないが、当時は、飯田橋から九段に抜ける裏通りのキャンパスに併設されていたので、患者の症例を揃えるのにコネクションに頼らざるを得なかったのが実情である。 当時の我が家はまさに正念場に立たされていたに違いない。
その間、一言も弱気な所を見せなかった、父や母の有り難さが今更ながら身に沁みる。