2011年10月15日土曜日

1961.10.15(日) 母は強し・・・親の心子知らず。

10時56分のロマンスカーで3人(祖母、阿久津さん、私)で上京、まずお祖母ちゃんを無事叔父さんの所へ送り届けることが出来てほっとした。 あいにく叔父さんは、栗原の叔父さんと一緒に魚釣りに行ってしまい家には叔母さんしか居なかったが・・・
・・・・
お昼をご馳走になってから早々に慈恵にむかった・・・・
病室がわからず阿久津さんに別館の方まで無駄足をさせてしまい申し訳なかった。
話しているうちに兄や妹も来て大分賑やかになった。
母も嬉しかったのか(また、阿久津さんを喜ばせたかったのだろう)、皆で一緒に大丸まで出かけ・・・ 食事をして引揚げた。

タクシー乗り場で(病院へ戻る)母を見送ってから、一緒に B.S. (八重洲口に有った桐生行き東武急行バスのターミナル)に行き、阿久津さんを見送った。

丁度、近藤が自然休校で帰る所に出会い、一しきり話に花が咲いた。 四学期はしぼられるぞなどと脅かされ、前から覚悟していたものの改めて緊張させられた。

母のことといい、兄のケースのことと言い、この秋から冬にかけて我が家は最も多難な期に突入したようだ。

(注1): 叔父さんとは本所横川橋に住んでいたラバウル帰りの父の弟、栗原の叔父さんとは京成沿線に住んでいた母のすぐ下の妹、公子叔母の夫である。

(注2): 阿久津さんと言うのは、当時わが家に勤務していた看護婦の一人であるが、病身の母を助けて自発的に女中(今で言うお手伝いさん)仕事まで引き受けてくれていた奇特な女性で、当時の我が家には欠かせない存在だった。

(注3): 近藤と言うのは、桐生高校の同級生で、私より1年早く、文2に合格していたが、駒場では一度も会ったことが無かった。 東大生としては一年先輩に当るので、嘘か本当か知らないが一言脅かされたわけである。 実際には、結局どうと言う事も無かったが、恐らく学科の選択では文2の方が遥かに緊張を強いられたのではないかと想像できる。 自然休校とは、どんな情況を言い習わしていたのか覚えていない。 当時の駒場では1、2年を通して、1~4学期と言っていたらしい。


(注4) : 兄のケースとは、インターンでこなさなければならない症例を揃えることである。 日本歯科大学付属病院は、飯田橋駅前に威容を誇っている現在、症例に事欠くことなど、まず考えられないが、当時は、飯田橋から九段に抜ける裏通りのキャンパスに併設されていたので、患者の症例を揃えるのにコネクションに頼らざるを得なかったのが実情である。 当時の我が家はまさに正念場に立たされていたに違いない。
その間、一言も弱気な所を見せなかった、父や母の有り難さが今更ながら身に沁みる。

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2011年10月13日木曜日

1961.10.13(金) 肝臓のバイオプシー

病院から電話があり、筋腫が広がっているので子宮切除手術をしなければならないことになったが、肝臓がそれに耐えるかどうか疑問なので火曜日に Biopsy を行い、可能性を決定することになったと言う。 大変なことになって来たものだ。

(注: 母は、私達兄弟が受験生だった頃から、家の切り盛りや私達への仕送りなどで、私達兄弟には想像もつかないような無理をしてきたらしい。 貧血⇒肝炎⇒肝硬変 で苦しみながら、努めて明るく振舞っていたが、そのうえこんな重病に見舞われるとは・・・ 自分は一体何をしてきたのか、とやり場のない自責の念に駆られるだけだった。 電話をしてきたのが母自身だったか、母の末妹で慈恵の看護婦をしていた八重子叔母だったか覚えていない。 Biopsy 自体は、定期的にやっていたので別に驚きはしなかったが・・・。
そのおかげと言う訳ではないが、2002年に私自身、前立腺癌の疑いでそれが必要だと言われた時、少しも驚かずに済んだ。)

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2011年10月11日火曜日

1961.10.11(水) 母に子宮筋腫の追い討ち!

中里さんがお祖母ちゃんの治療をやっているところへ、お父さんが帰ってきた。 今日、歯の型を採ってから入院したと言う。 産婦人科の検診の結果、子宮筋腫の診断を受け手術することになったが、良性なのであまり心配はなさそうであった。

(注: 中里さんと言うのは、同じ町内に住んでいた鍼灸師で、大秀才だったことは前にも書いた。 歯の型をとってというのは、母がインターン中の兄に義歯を作って貰うことになったからである。 入院とは、以前から肝硬変の予後検診を受けていた慈恵医大病院で、子宮筋腫が見つかったという話である。)

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2011年10月3日月曜日

1961.9.28(木) 兄の虫歯治療は半永久的!

2時15分頃、病院へ着いたのだが、早すぎるといけないと思い靖国神社まで一回り歩いてきた所、既に一時半頃出来上がっており、今か今かと待っていた所だと言う。 悪いことをしてしまった。
なかなか旨く入らず、どうもおかしいと思ったら、ストッピングが残っていたのだそうで安心した。 ともかくこれでまた一本助かったわけだ。
クリーニングが出来ていないので帰れないことになってしまった。

(注: 病院とは、兄がインターンで登院していた飯田橋の日本歯科大学付属病院のことである。 兄にはそれ以来、50年余り世話になっているが、その頃助けてもらったひどい虫歯は、その後何度も抜歯寸前まで酷使しながら、未だに健在?である。 その点に関する限り全く頭が上がらない。 最近も娘が原因不明の頭痛が続くので、八重洲口の診療所までの交通費片道数千円に目を瞑って、診てもらってきたが、近所の歯科医の噛みあわせを無視した治療の所為だとわかり、何度か通ってすっかり良くなり、交通費をケチらずに早く伯父さんに診ていただけばよかったと反省すること頻りであった。 身内を褒めるのもどうかと思うが、名医だと思っている。 関口歯科医院3代目の面目躍如というべきか・・・。
クリーニングとは、下宿先で頼んだのが出来上がってこないので帰省が遅れたという日常雑事の一端である。)

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1961.9.25(月) こんなこともあったのか・・・古書店めぐり、高校の後輩、他

地学講義を探しに古本屋めぐりをして、大分骨が折れた。 高円寺は2軒とも開いておらず、渋谷では道玄坂の2軒に無く、神泉よりの先日見つけた所へ行ったが、やはりない。 仕方なく大盛堂で見たところ、地学の研究と大差ないので、先刻の古書店に引き返し、150円で買った。

しかし、始め、この店(文紀堂)へ行く途中 P と(それから例の人物と)ばったり行き会ったときはぎくりとした。 同じ人間がこうもその時々で違って見えるのか不思議と言うほかない。 実に素晴らしい美人に見えた。 先日アーケードで行き会ったときとは雲泥の差であると言っても良いくらいであった。

学校へ行ってから70円で頭を刈ってもらったが、あんまり待ったのですっかり疲れてしまい、勉強もせずに引揚げてしまった。

北寮前で、阿部と石川がキャッチボールをやっている所に会った。

(注: 古書店めぐりは当時の一般学生にとっては、生活のかかった最優先課題だった。

相変わらず P は無視できない存在だったが、例の人物と一緒の時は、いつもと違って際立って華やいで見えた。 それだけ縁の遠い存在になりつつあったのだろう。

阿部とは、桐生高校の後輩の阿部達雄、石川とはクラスメートの石川嘉延のことだと思うが、彼等がキャッチボールをするような間柄だったと言うのは、今この日記を読むまで忘れていた。 多分、同じ剣道部に所属していたのかも知れない。 亡き阿部君に聞くわけには行かないので、今度、文1-6組の同窓会に出られたら石川君に聞いてみよう。)

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1961.9.18(月) 試験中に褒められた!?

昨夜は遂に眠ってしまい、目が覚めたのは五時ごろ、1時間ばかりやって早々に登校した。 到着したのが9時15分、それから本館一階の東側の部屋で3時間ばかり、105番で1時間半ほど頑張って何とかActⅢを片付けて310番へ行った。
試験中、先生が後ろから肩越しに 「きれいな読み易い字だ・・・」 などと褒めてくださったので恐縮した。 あとで一寸来てくれと言われ、行ってみると、先学期の成績が非常に良かったとのことで大いに面目を施した。
終わってから小柳と生協の Wistaria に行き会った。

夜、神社で映画をやっているので見に行ったが、なかなか良かった。 題は途中から見たので知らないが、"驀進" とか何とか言うのではないかと思う。

(注: 東大で試験中に監督の先生から声をかけられたのには驚いたが、それも依怙贔屓ともとられかねない褒め言葉だったのには仰天した。 科目は奥幸雄先生の英語だったが、教授の担当する3クラスくらいの学生が一緒で、前後は他クラスの連中だったので級友には聞かれないで済んだと思う。 奥先生は、当時全盛を極めたラジオ講座のスターの一人で受験生の間では有名人だった。 そういえば、前年の試験の後、授業中に石川嘉延君が一番だったと言ってみんなの前で辞書を渡したことがあるから、これが彼流の人気取りならぬ励まし方だったのだろう。 残念ながら私は何も頂けなかったが・・・。

神社で映画とは、当時、荻窪で妹の泰代と一緒にお世話になっていた多家の真ん前に有った白山神社のことで、丁度、縁日の催しで夜遅くまで賑わっていたが、そこで幕を張ってやっていた野外映画のことである。)

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