1962.5.7(月)「関口さん、法学部の学生は、そんなに優秀なんですか・・」「私・・」
講義が終わってから急いで神宮へ駆けつけ、4時50分頃まで応援した。 6回辺りまでしか見届けられず、心残りではあったが、鹿園さん宅へ向かった。
6時頃着いてから2時間ばかりで予定を終え、丁度帰宅しておられたお父さんともお目にかかり、5月祭の案内を申し上げて退出した。 名刺を頂いたが、通産省工業技術院 北海道鉱業開発研究所 所長 工学博士 鹿園直冶 とあった。 お会いした印象も非常に温厚な感じで気持ちが良かった。
スクールバスでお茶の水まで来る時、あのNM さんに良く似た人(Rose に因んで R と呼ぶことにする)と乗り合わせた。
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(休憩・・・2012.6.21)
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(再開・・・2012.7.8)
バスを待っていたときと、御茶ノ水で下車するとき、それから駅のホームで一度ずつ眼が合ったが、思わずハッとするような表情があった。
(注1): 神宮球場で試合の途中で、応援席を抜け出し、鹿園さん宅へ向かった時のことははっきり覚えている。 なぜかと言うと応援団のリーダーと思しき上級生から、「最後まで応援しましょう」 と大きな声で呼びかけられ、「これからバイトがあるので・・」 と釈明した時の後ろめたさを忘れられないからだ。 もちろん、応援席の殆んどの学生は、こちらの事情を尊重して好意的な表情だったが、とにかく広いスタンドの通路を衆人環視の中で通り抜けるのは気の引けること夥しかった。
(注2): 鹿園直建君のお父さんに会ったのは、この時を含めて数回くらいしかなかったと思うが、大抵、大蔵省の担当主計官との予算折衝のために上京しておられた折だったと思う。 この時だったか翌年、下北沢に越された後だったか、はっきりしないが、一つだけ印象に残っている会話がある。
鹿園 「関口さん、法学部の学生は、そんなに優秀なんですか・・」
関口 「法学部の学生が特に優秀だと言うことは無いと思いますが、法学部の中では大蔵省に行く連中の成績が良いことは事実でしょう。 多分、10番以内くらいだと思います・・」
多分、工学博士で地質学の専門家であった直治氏から見ると、素人の若い役人が分かったような顔をして馬鹿馬鹿しい質問をするのが痛々しくて見ていられなかったのだろう。
むしろ、同情気味に 「とにかく弁が立つし、良く勉強しているようですね・・」 と仰っていたように思う。
私自身、後年、富士通で銀行局の課長と付き合う機会があったが、その人が主計局に移り、電子工業担当の主計官になった際、何かとお知恵を拝借したいと言って、NTT、NEC・・ 等の部長達と一緒に一席設けてもらったことがある。 とにかく何でも分かっている振りをするのも大変ですね・・と同情したものである。 原発問題での役人の右往左往も同じことだろう。 分からないことは素直に分からないと言えばよいのにそれができないと言うのは、役人に限らず、医者でも弁護士でも教員でも、権威で口を糊していくしかない(と思い込んでいる)人々の通弊である。
(注3): 駒場時代には派手な下級生に目を奪われ気味だったが、本郷で卒業するまでの2年間、同期で文学部へ進学した何人かの女性に関する記述が増えてくる。 現金だと言えばそれまでだが、単なる恋愛感情を超えた同志的連帯感のようなものが生まれつつあったような気がする。