2011年9月16日金曜日

1961.9.14(木) 山手線で肩が触れる・・・ただそれだけの事?

3限終了後、一度堀篭と渋谷まで行ったが、思いなおして戻ってくると・・・・

本館から東たちが出てきたので写真を受け取ったり、暫く遅れて図書館へ入ろうとすると、丁度 彼女 が出てくるところにぶつかってしまった。 残念だったがそのまま中へ入って見ると、一杯で全然席がない。 なるほど彼女もこれでは帰らざるを得ないわけである。

富田と一寸話をして出てくると、矢内原門の手前で左側から来る彼女にまた出くわしたので一寸驚いている所を後から呼び止められたので、見ると木村、内田、増山らであった。・・・・・・東から貰った写真を見ていたので見せろと言うわけである。
・・・彼らも 彼女に気がついていたらしく 、内田が "あれがスチュワーデスだ" とか何とか言ったのを聞いたが・・・
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駅まで一緒に行くと P が一人でホームに立っていた。
渋谷で皆と別れ、もう彼女を見ることはあるまいと思っていたが、山手に乗って後からすぐ横に来た女の子が誰かと思ったら、何と彼女だったのには全く仰天した。・・・しかし、すぐ彼女の後を追うようにしてきた人物は一体誰だろうか。 彼女は確かに "私、こまります。 そんなにしつこくされると本当に困りますから" と言ったように思う。 相手は大分まいっていたらしいが、手にノートのようなものを持っていたところを見ると、何かの記者かなにかだろう。
だが、彼女は一体どこで下りたのだろうか。 代々木でその人物に一礼して前の車輌へ移っていったが、出口から遠い方へわざわざ行くのもおかしいから降りたのではなかろう。
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(注: 前半で言う彼女 とは、これまでも何度か出てきた女子学生の一人のことで私が勝手に P と呼んでいた女子学生のことである。内田のように大蔵省へ行くような真面目男でも無関心ではなかったほど目立つ存在だった。 東から貰った写真とは、美ヶ原合ハイでのスナップ写真のことだろうと思う。

山手線車内での一件は、P が雑誌記者か何かの取材を振り切ろうとして駆け込み、掴った吊革のすぐ隣の吊革にぶらさがっていた男がたまたま私だっただけの話である。 しかし、それは、一瞬のことで、その時は何が起こったのかわけが判らなかった。 「袖振り合うも多生の縁」と言うが、「袖振り合う」どころか「肩を触れ合った」のだから、きっと浅からぬ縁が有ったのだろう。 今にして思えば、もっと男らしく毅然として彼女をかばってあげるべき場面だったのだろうが・・・・・。)


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1961.9.9(土) 帰国子女・・・それとも天才?

断水で顔も洗えず、おかげで学校へ着いたのは12時、残念であった。
井の頭線の中で、江田に言われてそちらを見ると、小学校6年生くらいの男の子が部厚い英語の本を読んでいるではないか。 まったく驚いた。

アーケードへ行く途中、MKさんがお茶のみ場へ入る所が見えた。 4限のゼミに出るのだろう。

(注: 江田とは今や知らぬ人とてない民主党の江田五月のことである。 駒場の自治会委員長となった彼とノンポリの私がとくに親しかったわけではないが、時折、井の頭線の車中で記憶に残る会話を交わしていたらしい。) 

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1961.9.8(金) 小柳皓正君・・・持つべき者は親友

昼休みにアーケードで P を見た。 久方ぶりに P らしい服装をしていて感じが良かった。
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4限終了後、駅まで行ってから事故受験願いをとりに(小柳の所へ)戻ってきたら、中村たちに会った。 彼も小柳を探していると言う。 一度、諦めて帰りかけた所、後から小柳が(図書館で中村に会ったのだろう)追いかけてきて呼び止めてくれたので、早速、受験願いを受け取り教務で受験票を貰う。
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(注: 小柳とは、西武鉄道事件に巻き込まれ自らの良心に従って死を選んだ元西武鉄道社長の小柳皓正のことである。 彼とは、仏語を最後まで諦めずに履修したのを切っ掛けに、その後本郷へ行って学部が分かれた後も一緒に独語会話を習いに行くなど、いわば君子の交わりのような淡々たる付き合いを続けることになる。
日記には、相変わらず、何人かの女性の消息に関する記述が登場するが、個々の女性に対する憧憬というより、級友達とともに駒場時代の思い出を彩る群像の一人として大切にしたいと言う気持ちに変わりつつあった。)

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1961.9.7(木) 今日は勉強に専念

12時半まで図書館で勉強してから110番へ行ったが休講とのこと。 後は黒川、中村、山口らと119番で勉強した。

(注: 流石に試験期間中らしく、皆淡々と勉強していたらしい。)

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1961.9.6(木) 道理で満席のはずだ!

人類学は休講であった。 堀篭と早昼食を済ませて空き教室で少々勉強した。

3限は体育だが、どうも当番くさいので行ってみるとやはりそうだった。 試験は例によってお茶を濁し、道具を届けてから地学を覗いてみようと思い、大竹と一緒に行くと、黒川が "一杯でだめだ" と言うので3人でお茶を飲んだり暫く駄弁った。

事故受験票を見せると "認印が無くてはまずい" というので、一緒に生協プレイガイドまで行ったが"関口" と言うのは無かった。 丁度、彼女(Wisteria に因んで W と呼ぶことにする)が同僚の男の人にウクレレか何かの指導を受けていたが、我々が傍にいるので、恥ずかしがってやめてしまった。 とにかくあの人が持っているような静かで優雅な女らしさというものは、僕にとって最も好ましいものの一つである。

何はともあれハンコだという次第で、駅下の店へ行った所、有るにはあったが値段が70円では、50円しかない現在どうにもならない。 仕方なく戻ってくると堀篭たちがやって来て、木村さんが問題を教えてくれたと言う。 全くありがたいことである。 ハンコなんかなくても、ともかく行ってみろと言うので行ったところ先客(L1-16組)がいて、一緒に第3本館へ行ったが、丁度お茶を飲んで居らしたところで、気軽に認印を押してくださり、おまけにお菓子までいただいてしまい、まったく恐縮だった。

(注: 地学の授業が満員だったのは、要するにみんな木村先生が問題を教えてくれることを知っていたからだ。 他にも寮生にとっては毎年先輩から受け継がれている御馴染みの話は沢山あったらしい。 彼女とは、1961.6.10(土) 生協レジの麗人 で "感嘆措くあたわざる" と形容した人のことである。)

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1961.9.5(火) 泥縄の試験勉強

学校へ着いた時は既に十時近く、地学は殆ど終わりかけていた。 高橋、多賀、山田、木村の面々は感心なことにちゃんと出席していた。
一度帰りかけて思い止まり、渋谷駅のベンチで休んでいると、黒川が現れたので同行し、図書館で12時頃まで勉強した。 黒川、中村と3人で寮食へ行き昼食。
午後2時頃まで再び図書館で頑張り、二時から小柳と約束した平岡さんの3語に出た。 帰りに図書館に寄り、黒川に小柳のノートを写し終わったら貸してもらう約束をした。 大収穫であった。

(注: こういうのを泥縄というのだろう・・・これでは文一のトップテンどころか上位100人にも入れなかったはずだ。 尤もマルクス経済学関係で軒並み可を貰って以来、そんな野望はとっくの昔に捨ていたが。
平岡さんの3語とは、選択科目の仏語のことで、これだけは2年の終わりまで小柳に付き合って我ながら良くやったと思う。)

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1961.9.4(月) これが現実・・・まともな東大生の実力を知る。 

電車を降りたところで小田に会い、一緒に図書館へ行って荷物を置いて出てくると黒川以下の面々に行き会う。 北寮前から再び図書館へ入り暫く勉強。 12時ごろ教室へ行き話しているうち杉山、小柳、更に暫くして東、奥原、若槻、門野と言った面々も現れ大いに話が沸いた。
東が写真を持ってきたがなかなか良く撮れていた。
杉山に I を見なかったかと聞かれたが、あの様子では未だに梨の礫らしい。

帰りに武藤、黒川3人で東急文化会館5階のスイートコーナーでアンミツを食べ、更にコーヒースタンドで一杯のみ、地下に下って10円ニュースを見てお開きとした。 〆て70円也。 おかげで昼食がふいになってしまった。
ニュースを見ながら武藤に聞いたところによると、赤塚は文一で9番だそうである。 驚いたものだ。


(注: 東が持ってきた写真と言うのは、多分、美ヶ原でのスナップ写真のことだろう。 今日の今日まで誰のカメラで撮ってもらったのか忘れていた。 改めて彼に礼を言わねばなるまい。
昼食を抜かざるを得なかったのは、当時の私にとって70円と言うのは馬鹿にならない金額だったからだ。 なにしろ普段は学食の30円の定食で済ませていたのだから。
赤塚は後に裁判官になったが、我々のクラスには後に大蔵省へ入ったのが2人もいたのだから、我々がやれ合ハイだとか、 I やP がどうしたのとか取り沙汰している間も、しっかりと勉強して文一のトップテンの座を軽々とクリアしていた男が何人も居たはずだ。)

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2011年9月15日木曜日

1961.9.2(土) 夢と現実の間で・・・

9時半ごろ登校。 吉沢、中島に行き会ったくらいで別に変わったことはなかった。
ただ協組のところで MK さんにばったり出会ったときは少なからず驚いた。 わずか一月半の間にまた一段と・・・  立派になったような気がした。

(注: 別に変わったこと・・・とはどんなことのつもりだったのだろうか。 とにかく本郷進学決定を前にした緊張感のかけらもない。 無目的な学生の一日はこんなものだった。)

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1961.9.1(金) 駒場の夢も、そろそろ見納め?

8時半ごろ登校。
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アーケードでは正面から擦れ違ったが何も感じ取れなかった。 一二限の休みに弥生通りの方へ行くのを見た。 例の男と一緒だった。 放課後は、二人で図書館で勉強していたらしい。
3限は休講とは知っていたが105番へ行って見たら、美作、西尾らが居り、話しているうちに黒川、塚原も顔を見せた。 早坂も居た。
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東大前でバイトに行くという黒川と一緒になった。

(注: アーケードで誰に擦れ違ったのか此処には書けない。何れにせよ相手のいる女性に夢を追い続けるほどの夢想家ではなかったから、駒場の夢もそろそろ見納めかと思ったのは確かだ。
彼らを含めクラスの面々が割りと真面目に登校して勉強していたらしいのは、前期末試験が間近に迫っていたからだろう。)

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1961.8.31(木) またまた大失態・・・科目届漏れ

十時半ごろ学校に到着。 生協は棚卸で全部休業だった。

教務で科目届を見たら地学と化学に×印がしてあり、 "何れか一方" と青鉛筆で書いてある。 驚いて問い質すと、両方とも受験名簿には載せてないとのこと。明日、掲示を見た上で追加受験願いを出してくれと言われたのはショックだった。
要するに塩見先生の化学が、火・土の組に入っていて、片山・岩生 両先生の地学と時間がかち合うということに気がつかなかったのが、そもそもの手違いだったわけである。 厄介なことになったものだ。

帰りに、高樹町まで歩いてみたが、精魂尽き果ててしまい、笄町まではとてももたないので、そのまま引き返した。 中野の名画座でも見てこようと思ったが、50円均一ではなくなってしまったようなので、やめにした。 

(注: 笄町まで何の目的で行こうとしたのか、まったく思い出せない。 単に何処まで歩けるか試しただけだったかも知れない。 実際、母が肝硬変で慈恵医大病院に入院していた時など、渋谷から歩いていったことが何度もあった。)

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1961.8.29(火) 無駄足にはならなかったが・・・

11時ごろ学校へ着いた。 今日こそはへまをやらないつもりだったのに、辞書を忘れてしまい勉強はできなかった。 原と赤塚に会った。

(注: 学生証と印鑑は持って行ったので最小限の目的は達したらしい。 原とは一年上から留年してきた言わば先輩でみんな原さんと呼んでいた。 今でも同窓会の中心人物で大出世した連中も頭が上がらない。 赤塚と言うのはクラスでは控えめで目立たない存在だったが、1年次の通算成績が文一のトップテンに入っていたと誰かに聞いたことがある秀才である。 目立たなかったのではなく目立ちたくなかったのだろう。)

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1961.8.28(月) 学校まで無駄足で交通費100円の失費

昼過ぎ、学校へ行ったは良いが、学生証も印鑑も忘れてしまい、何しに学校へ行ったのかわからないような体たらく。 もっとも受付は正午までとのことであったから、かりに持って行ったとしても役に立たなかったわけだ。 いずれにしても呆れたものである。
丁度、水泳の対抗試合のようなものをやっていたので、それを見てきたが、そのために交通費100円では一寸割りの合わない話である。

(注: 将に苦学生のイメージだが、授業料の捻出に苦しんでいた学生も少なくなかったのだから、贅沢は言っていられなかった。 それにしても、"対校試合のようなもの" とは、流石は東大と言うべきか言い得て妙である。)

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2011年9月5日月曜日

1961.8.8(火) 慌しい夏休み

数日来の雨がやっと上がり、久し振りの上天気でであったが、流石に秋風の所為かカラッとしていて大変しのぎやすかった。
4時のバスで上京、アパート着8時30分頃。 ゴキブリを3匹退治す。

(注: 今だったら暑いさなかに慌しく上京する学生はいないだろうが、当時の東大では9月初めに前期の期末試験があったので、夏休みだからと言ってのんびりはしていられなかったのだろう。 それにしてもこの後、8月10日から24日まで何も記述がなく、26日には再び上京している記述があるからその間は荻窪の下宿先か桐生の自宅でぶらぶらしていたらしい。)

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1961.8.6(日) 早大ナレオハワイアンズの桐生公演

全く驚くほどの盛況であった。
(9.1 休憩、せめてここまでは 8月中には終えたかったが・・・)

殆どが若い女性であったことからも、集まった目的が何であるかを推察することは容易であったが、いずれにせよ若い人が大勢集まった雰囲気と言うものは良いものである。 そのうえ、小林はもとより石山、船津、あるいはまた篠原、吉川の両嬢とも再会することが出来、これでもしあの雨が降らなかったら言うことはなかった。

しかしそのお蔭で船津には会え、また金子さんのお父さんの車で送っていただけたことを思えば、かえって幸いであったと言うべきか。 関山、星野の couple や例の金子さんの従妹や宮本さんの姿も見えた。

(注: 多分、当時、出来たばかりの桐生文化会館の目玉イべントとして、早大のハワイアンバンドを呼んだ時の顛末である。 当然、桐生出身の早大生総動員の一大行事だった。 肝腎の公演内容について何も記述がないのは、クラシック党のわたしにとって所謂軽音楽は殆ど関心の外だったからである。
正式には、"早稲田大学ハイソサエティオーケストラ" という気障な名前のジャズバンドの公演で、ナレオハワイアンズは、OB の賛助出演だったと思うが、そちらのイメージしか残っていない。
小林と言うのは同じ末広町内の有力者の息子で、桐高3年のときの仮装行列をやったときの仲間であるが、このときは招待側の早大同窓生を代表して花束か何かを贈呈した姿を覚えている。 船津と言うのは桐高入学試験でトップだったと言う噂のある秀才で確か早大の理工学部に入っていたはずだ。 その他の顔ぶれも懐かしい人たちばかりだが、"関山、星野の couple" の意味がよくわからない。 二人とも西中時代に同級だった女性達だから、多分、"仲良し二人組" とでも言うつもりだったのだろう。)

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2011年9月4日日曜日

1961.7.19(水) 合ハイ二日目・・・快晴の美ヶ原

十時十五分、東の声で目が覚めたまま、起床まで遂に眠れなかった。 また、眠くもなかった。
(8.29 もう暫く休憩)

朝食を済ませ出発したのが九時。 一斑が3、4分早く出、美しの塔で落ち合うことになった。 途中、写真を撮ったりしているうち、二班に追いつかれてしまったので、それから少し馬力をかけ、僕はとくに少し無理をしてみたかったのでどんどん先に進み、皆より5分も早く美しの塔へついてしまった。
皆一緒になってから、また、堺と僕が先陣を受けてバス乗り場まできてみると、既に相当の混雑。 結局、美鈴湖まで立ちん坊だった。 美鈴湖では杉山と一緒にボートに乗り、それでも何とか漕げるようになった。 一汗掻いた後、湖畔で立ったまま簡単な昼食をとり、また満員のバスに揺られ、電車で松本駅に着いたのが3時ごろ。 ここで、木崎湖へ行く連中(東、若槻、奥原と、鈴木、小山、奥原、益田の諸嬢)と別れた。

残ったもの同志、余った時間でタクシーに分乗し松本城の見物に出かけた。 復興天守閣だそうであるが、大阪城などと違い往時そのままの形で復旧されていたので面白かった。

西川さんの所に残る原田、永本、宮部の諸嬢に送られ、松本駅を離れたのが4時30分であった。
車内では、丁度、僕と武藤に黒田、前川の両嬢が同席し、思いがけず話が弾み、心を開いた話が出来たことは望外の喜びだった。 甲府でぼやぼやしていて駅弁を買い損なってしまったが、ページワンなどで愉快に過ごしているうちに空腹も忘れてしまった。 新宿駅で堺にリュックを渡した後、黒川、美作らと別れ、中央口を出たところで四人で夕食をとり、名残を惜しんだ後、7番ホームで3人と別れ帰宅した。 アパート着11時。

(注: 今読み返して見ても随分克明に書いてあると思うが、これは小学校の時以来、修学旅行のつど、何時もやっていた習慣である。 小学校6年次の江ノ島、鎌倉2泊旅行の時は、B4原稿用紙10枚の絵入り旅行記、高校3年次の京都、奈良3泊、車中2泊の関西旅行では、40枚の旅行記を一晩で書き上げた記憶がある。 これは、私が筆まめだったからではなく、それほど当時の我々にとって泊りがけの旅が、感激的な経験だったからである。
文中の個々のエピソードについては断片的な記憶しか残っていない。 美鈴湖から乗ったバスの終点が何処だったのか思い出せないが、そこから 「浅間鉄道」 というローカル電車に乗って松本に着いたような気がする。 因みに松本市の 「浅間温泉」 と言う所は、奇しくも、後年、信州大学に入った長男の貴裕が、教養課程の2年間、下宿していた町である。)

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