2012年4月18日水曜日

1962.4.10(火) 泣きっ面に蜂・・雨と私鉄ストで大遅刻

家を出るとき、一寸雨が止んで来たので、たかをくくって傘を持たずに出かけたところ、駅まで行かぬうちに風まじりで降り始め、すっかり濡れてしまった。
駅前まで行くと物凄い混雑で、警官まで出て整理しているので何だろうと思ったら、私鉄ストのため目蒲線の客が皆国電に殺到したのであった。

10時近くなって教室に着いたので、宮沢教授の話の終わりの方しか聞けなかった。

(疲れた: 休憩)

(再開: 2012.4.25)

2時頃、小西と別れて、本郷3丁目から都電に乗り、叔父さんのところへ伺った。 和雄さんに電話していただくと、僕に出てくれとのことで、叔母さんと代わったところ、やはり電話では話せないから会って話したいが、今日は都合が悪いから次の機会にして欲しいとの話だった。
ゼミのことも尋ねられたが、大石教授にすると言ったところ、良く知っているそうで大いに賛成してくださった。 それにしても話とは一体何なのか、気になることではある。

(注: 和雄さんというのは、本所横川橋に住んでいた雪子叔母の従弟で、桐高の先輩でもあり、2年前に法学部を卒業したばかりだったが、暫く前に武伯父を訪ねた時だったか、伯父から、私に話したいことがあるらしいということを聞いていた。 しかし、一体何の話だったのか未だに記憶がない。)

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2012年4月14日土曜日

1962.4.9(月) 本郷の初日・・・級友との再会

東京回りで登校。 バスで東と一緒になった。

まずは学生証というわけで事務室へ行ったところ、印鑑を忘れたため貰えず、最初からそそっかしさを暴露してしまった。 前に入試のとき入ったことのある38番教室で、2時間ばかり話を聞いた後、食堂で昼食を済ませた。
ここで、堀篭、山口、宇田川、杉山、大竹に会う。

生協には印鑑がないので、正門前の文房具屋へ行き、60円で買って間に合わせた。
ここで稲垣と一緒になり、また、MKさん(友達と二人連れだった)に行き会った。

午後は、小西、吉沢とコーヒーを飲みながら経済学談義をした後、図書館で少し勉強した。 3時近くなってアテネ・フランセへ行く吉沢が席を立ったので僕も小西と別れ、ゼミがあるはずの部屋を覗いてみたが、全然、人気がないので、今週はやらないのだろうと思って引揚げた。

アーケードを出るとき、外国人の女子学生が来たのと擦れ違ったが、背丈と言い、タイプと言い、Pに良く似ていたのには驚いた。

御茶ノ水駅で定期を買ってから、駿台を覗きに行ったところ、丁度、入学試験の合格者番号が発表され、大勢の学生が群がっていた。

・・・・・

(・・・ 疲れたので以下略)

(注)1: このブログも駒場を去るまでにしておこうかと迷ったが、それでは、いまだに続く経済学部大石ゼミの友人達との数々の思い出の後を辿る機会がなくなってしまうことに思い至って、本郷を終了するまで続けることにした。 それに、法学部へ進学した連中とも忘れていた意外な交流があったかもしれない・・・。

(注)2: 東とは、とくに親しく付き合ったわけではないが、駿台で一緒だったこと、敦子お姉さんの渡欧記念リサイタルに誘われたこと、合ハイに同行したことなど、付き合いべたの私にしては、親近感を持っていた。

堀篭、山口、大竹、稲垣とは、最近も同窓会で何度か会っている。 小西、吉沢は経済学部進学組みで、未だに一度も同窓会に来たことがないが、夫々、一匹狼の理論化肌で、群れ集まるのが子供っぽく見えているのかもしれない。 因みに、小西は後年入社した大手電力会社から日経経済センターやブルックリン研究所に派遣されたし、吉沢は、マル経理論経済学者として大成し、甲南大学長を勤めた。

アーケードのところで擦れ違ったのが、外国人留学生だと思ったのは、駒場ではまれな容姿に見えたからだが、P が化粧した時はあんな雰囲気になったのかも知れないと思うくらい良く似ていた。 法文経1号館のアーケードから工(?)学部の方へ抜けていったので、P であるはずがないと決め込んでいたが、最近TVで所謂、メークの威力を知るに及んで、あるいは?という疑念が湧いてきた。 それにしても一体何の用があって・・・

駿台予備校の入試発表風景は、東大のそれ以上の熱気に沸いていた。 3年前の自分を思い出して、感慨無量だった。 

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2012年4月13日金曜日

1962.4.5(木) 駒場で最後に会った少女・・・あれは幻か!

一時半頃、妹の所へ行き、持参した昼食のパンを食べてから一度下宿に戻り、"行列と行列式" を持って出かけた。 ぶらぶらと恵比寿まで歩き、国電で新宿へ出てから思い切って若松町まで歩いてみたが、やはり留守だったので住所を書いた紙を投げ入れて引揚げた。

(注: なぜ下目黒に転居したのか思い出した。 目黒不動に近い妹の下宿先まで歩いていけるところにした方がよいとの両親の意向に添ったのだった。 若松町まで行ったのは金子さんに新住所を教えるためだが、同時に歩いてどのくらいかかるか試してみたかったからだ。)

帰りに学校へ行ってみたが、やはり何も無かった。
しかし、帰りがけに矢内原公園のところで、以前、日曜日などに良く会った女の子に行き会った。 あの子は僕を慕っているらしい。 去りにくそうに何度も立ち止まって僕の方を振り返って見ていた。 僕も思わず何か声をかけてやりたい衝動に駆られたが、どうしても声が出なかった。・・・・・・
どうして、せめて、"さよなら" 一言だけでも言ってやらなかったのか、どんなに喜んだのかしれなかったのに。

(注: 駒場時代の日記の最後に登場するのが、この12~3歳くらいの少女である。 そういえば、2年前、西荻で田村家から井上家に移った頃、やはり、今日と同じように当ても無く散歩していた時、上井草のグラウンド近くで犬を連れた少女に出会ったことを思い出す。

2月7日(日)
上井草のグラウンド近くを歩いていたら前掛けをして犬を連れた女の子に会った。
12~3歳くらいだったろうか。
2度と会うことはあるまい。他所ながら幸せを祈ろう。


19才の夏、赤城篭りで出遭ったのも同じ年頃の少女達だった。 そして私が10年後に結婚する事になる現在の妻もこの子達と同じ世代、いわゆる団塊の世代の一人だった。)

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1962.4.4(水) 兄の国家試験に気をもむ?

昨日の物凄い風まじりの雨もすっかりおさまり、気持ちのよい天気であった。

夜、兄のところに寄ってみた。 歯冠彫刻をやっていたが、外科の口頭試問で少し強引に自説を押し通してしまったのを気にしていた。
どうも父の手紙は、いろいろ人を惑わせてよくないと思う。・・・・

(注: 外科の口頭試問とは、何のことか書いてないので確かなことは兄に聞いてみるしかないが、多分、埋伏智歯の処置に関する定説・・・無条件に抜歯すべき・・・に対する抵抗だったと記憶している。 大分追求されたらしいが、最後まで "無条件" を受け入れたくなかったらしい。 現在の定説がどうなっているか知らないが、私としては歯科医師3代目としての良心が言わせた言葉だろうと今でも立派だったと思っている。
父の手紙のことが国家試験に対するアドバイスのことだったのか、あるいは全く関係のない話だったのかは、何も覚えていないが、もともと俗事に疎く、大きなことにしか関心のない人だったから、目先の細々した問題に役立つような助言はあまり期待できなかった。)

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1962.4.1(日) 久我山に越した田村家・・・2年ぶりの再会

午後、下宿を出、白金台町から三光町のほうへ廻り、恵比寿駅から国電で渋谷へ出た。 学校へ行ってみようかと思ったが、行ったところで何になるのかと思うと馬鹿らしくなって、そのまま電車に乗って新宿で降りた。・・・・

とにかく、下宿へ戻る気がしないので、荻窪まで行き、駅前の菓子屋で "もなか" を買い、立教女学院行きのバスで田村さんのところへ行ってみた。 幸い、在宅しておられ、そのうちに "テイジ" 君も帰ってきて非常に楽しくお話した。 夕食までご馳走になってしまい、近頃に無く愉快な一日だった。

テイジ君が大阪に出張していた時知り合った一つ年上の女性に見込まれてしまい、文字通り "生きるの死ぬの" といった手紙が来たりして、非常に心配されたことなど奥さんから伺ったが、テイジ君ももうそんな年になったのかと感慨無量であった。

(注: 新しい下宿先の石橋さんの家は、権之助坂が6号線に交差する手前の目黒川左岸に面した中流家庭の2階建てだったが、既にご主人に先立たれた夫人が、何人かの下宿人に部屋を貸して暮らしていた。 私は、その中でも一番狭い玄関脇の3畳一間を借りていたので、隣室の音が筒抜けで、始めのうちは落ち着いて篭っていられなかった。
田村さんと言うのは、浪人時代の2年間、西荻駅徒歩一分のところに下宿していた時の大家さんで、ご夫妻共に足利出身と言うこともあって、随分お世話になった方である。 "テイジ" 君はその一人息子で飛行機整備士になるのだといって航空専門学校に通っていたが、大阪での件は、無事卒業してからのことだろうと思う。 残念ながら、私は終に "生きるの死ぬの" といった手紙を貰うことも無く、駒場を後にすることになった。)

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2012年4月12日木曜日

1962.3.30(金) 目黒川沿いの石橋家・・新しい下宿先

1時半ごろ車が来た。 思いのほか大きな車で十分まに合った。・・・
・・・
石橋さんのところへ行く途中、右折禁止にあってしまい大分遠回りをしたが、ともかく無事に片付いた。・・・ 9時頃までかかってやっと整理した。 夕飯を食べて戻ったのが10時、隣室の人はもう帰っていた。 流石に襖一つ隔てただけなので、一寸した物音まで手に取るように聞こえる。 ともかくよほど神経を図太く構えないとやっていけそうもない。

(注: この4月から本郷へ通うようになると言うのに、何故、下目黒の石橋家に下宿することになったのか、自分でもよく覚えていない。 これが私の人生を決定する重要な転機だったということに気付いたのは、3年前、急性A型大動脈解離で倒れ、奇跡的生還を果たした後だった。)

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1962.3.27(火) これが駒場での仕事納めか・・・ひたすら傍観の2年間

11時頃学校へ行き、ダスターコートを受け取る。290円也。 書籍部の前まで行ってみたものの、どうしても勇気が出ず、入れなかった。 昼食を摂ろうと思って、寮食とホールを覗いてみたが、何れも休業。 仕方なく伊東屋へでも行こうと思ったが、混んでいたので見合わせた。 何となく帰りたくないので、また引き返し、五号館で東大新聞を貰うことにして・・・

(注: 先日、クリーニングに出しておいたダスターコートを受け取ってしまったので、もう駒場にいなければならない用事は何も無かったが、いざそうなってみると俄かには去りがたい思いに駆られるのを如何ともしようが無かった。 Wistaria の顔だけでも一目見ておきたかったが、用もないのに書籍部に入る勇気が出なかった。)

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2012年4月11日水曜日

1962.3.24(土) 駒場の総決算・・・成績表

上京、巣鴨でバスを降り、山手で渋谷へ直行。 学校着、2時半頃、成績表を受け取って引揚げた。
教務のところで MK さん(友達と2人だった)に会う。

バスで上京の途時、浦和県庁の少し手前で、左側の町名表示板を見たら、何と仲町3丁目とあるではないか。 一体どうして今まで気がつかなかったのかと、我ながら迂闊さに腹が立った・・・・・。

(注: まさに2年間の総決算だった筈だが、まったく事務的な記述に終わっている。 その位、駒場、いや東大での成績に関心が無かったというか、熱意が無かったということだろう。 MKさんのことは常に意識はしていた筈だが、何も感じていないかのごとくである。

"浦和県庁前" は、帰桐や上京の折、いつも利用していた東武急行バスの停留所があったところである。 電柱の町名表示板を見て驚いたのは、私が教務課の履修者名簿からピックアップしていた何人かの女子学生のうちに、誰かは特定できないがそこから通っている人がいたからである。 元旦に桐生で開いた新人歓迎会で後輩の韓君から聞いた "身元調べ" の話を思い出して、彼らの行動力に感心すると同時に、自分の優柔不断振りを痛感させられた。) 

2012年4月10日火曜日

1962.3.12(月) 春休みの駒場・・・夫々の雑用

11時半頃、学校着。ダスターコートを洗濯に出し、掲示を見、教務へ行こうとしたところ馬場に会った。 図書館で別れ、下宿の適当なのがないかと厚生課に行って見たが、ありそうもない。 昼食を摂って帰ろうとした時、杉山に会い、もう一度厚生課に行き、いろいろ彼の下宿問題に付き合わされた。 2時半頃、一緒に下校し駅で別れた。

(注: 入試の2次試験は10日に終わっていたはずだから、校内は閑散としていたろう。 それでも本郷への進学を控えて夫々何かと雑用で登校してくる者はいた。 馬場と言うのは、1962.2.5(月)の日記 "私はたかが期末試験、兄は国家試験の正念場" で触れた馬場君のことだと思うが、彼の兄さんが学生運動の闘士だったという話は記憶にない。 あの時の話は一体何だったのだろう。)

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2012年4月2日月曜日

1962.3.8(木) 幾年(いくとせ)ふるさと来てみれば・・・

ロマンスカーの切符を買いに行ったついでに、如来堂から赤岩へ抜け、大間々~高津戸を経て帰る途中、西堤の切通しを過ぎたところで擦れ違った車を運転していたのは、どうも斉藤マツ枝さんらしかった。 和服を着ていた。

(注: 学生時代、帰桐の折、6歳のとき祖父母と3人で疎開していた高津戸峡まで自転車をを走らせたことがあった。 翌日の上京のため東武赤城線の急行切符を買いに行った時のことらしい。
疎開先の家は、農家には珍しく瓦葺で子供の目には随分大きく見えたが、行って見るとあまりにみすぼらしく、瓦屋根も崩れ落ちかけていたので、胸を衝かれる思いがしたことを思い出す。
・・・ 幾年(いくとせ)ふるさと来てみれば ・・・


帰りに擦れ違った車を運転していたのは、西堤の切通しの手前の高台に豪邸を構えていた初代コロンビアローズの斉藤マツ江さんだったと思う。 当時の桐生で乗用車を自分で運転するような女性は殆んどいなかったし、まして和服でとなれば尚更のことだった。
                   前方に西堤の切通しを望む

彼女が桐生市役所の一職員だった頃、閉院後の我が家の玄関先で父が弾くバイオリンに聞き入っていたことは、ホームページにも書いた。 そういえば、たしか彼女の実家は床屋さんだったが、級友の金子安江さんから遠縁に当ると聞いたことがある。)

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2012年4月1日日曜日

1962.3.1(木) 苦手科目の泥縄勉強②・・有終の美には程遠く

宵のうち少し眠ってしまったが、それでも夜半から一睡もせず、昼間の分も合わせて300頁ばかり読んだ。 結局50頁ばかり残ってしまったが、試験の方は、まあ何とかやれた。 憲法同様、2問目が時間不足で纏まらなかったが、1番目が割合良く書けたから、まず問題なかろう。

12時頃、部屋に戻り、一通り片付けてから、部屋代を払い、2時半頃出発。 雨が降っていたので金子さんのところには寄らないことにした。

(注: 駒場での最終試験科目が何であったか、全く覚えていない。 350頁のテキストも多分初めて読んだのだろう。 それすら50頁も読み残すくらいだから、余程嫌いな科目だったに相違ない。 多分、経済学総論とでもいう科目だったのだろう。

憲法同様何とかやれたと楽観しているが、ということは、結局、憲法同様、を付けられたに違いない。 元々あんな似非憲法などに迎合してまで優を取ろうなどと言う気は毛頭なかったし、更に言えば、私は所謂社会科学系の学問にはまったくと言ってよいほど興味がなかった。 それは、大学教員として、経営情報論や金融情報論を講じていた頃や退職後の今でも変わらない。

12時頃出発したとあるのは、桐生への帰郷のことである。)

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1962.2.27(火) 苦手科目の泥縄勉強①・・同席の女子学生が励み!

昨夜は、とうとう一頁も読まないで寝てしまった。

布団の中で少し勉強してから掃除をし、9時頃出かけた。 11番で30分程読んでから、図書館で2時10分頃まで頑張ったが、結局160頁までしか読めなかった。 しかし、幸い問題が極く一般的なものだったので助かった。 それにしても、書き終わらないうちに時間が来てしまったのには慌てた。 監督の先生に催促されるまで書き続けて漸く何とか恰好をつけたが、実際、際どいところではあった。
北寮前で小西に会い、一緒に夕飯を食べて帰った。

図書館で勉強中、また彼女(文研)を見た。 彼女も僕を一応 identify はしているらしい。

(注: 後年、東京情報大学の教員になって、試験を監督する立場に立って、こういうタイプの学生を見るに付け、"何もそんなに頑張らなくてもよいのに" と無駄な努力に哀れを催したものだ。

こういうときの泥縄勉強が、同室の文研の女子学生を意識することで、大いに捗ったことは事実だ。)

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1962.2.25(日) 忘れえぬ人々④・・畏友、堀籠幸雄君

11時頃、兄のところへ行き、正午頃まで話してから、本郷へ行った。 全く大した図書館だった。 堀篭が来ていた。 帰りは三光町で別れた。 まだ200頁も残っている。 果たして終わるかどうか。

(注: 堀篭とは、後年、最高裁判事となり、次期長官の最有力候補と言われながら、政局の急変で、長蛇を逸した堀籠幸雄である。 先年の同窓会の時、国民審査で過去最高の500万票を超える反対票があった(何処かの団体の組織票だろう!)といって笑っていたが、学生時代から茫洋としていながら何事にも動じない風格があった。

勉強の目標が定まらず、いつもふらふらしていた私とは、本来ならば、水と油で不仲だったとしてもおかしくない筈だが、妙に馬が合ってよく雑談したものだ。 恐らく、お互いに、中身はともかく、目先の話題より遠くの目標を追っていたことを感じていたからだろう。

戸山高校出身の彼が三光町で下車したのは自宅が近かったからだ。 駒場の図書館より、本郷の図書館に通う方が確かに便利だった筈だ。)

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1962.2.24(土) 忘れえぬ人々③・・駒場生協の麗人

9時半ごろ登校。 図書館で勉強したが、どうも体が重くてあまり、捗らなかった。 教務で小六法を買った。 情けないことに、Wistaria に向かった途端に喉が詰まったように声が出なくなってしまった。 黙って本を出し、代金を払って、包んでくれたのを受け取って逃げ出したところなどは、我ながら思い出しても身の竦むような醜態だった。
教務で〇〇さんに会った。
4時半ごろ、図書館を出、寮食で夕飯を片付け、下校した。

渋谷駅で Wistaria を待ってみたが、現れそうもないので10分ばかりで諦め、引揚げた。

Le miserable !

(注: 唯、待つ一方の消極的人生観は、小学校の通信簿に書かれて以来、60年後の今も全く変わらない。 縁が有り、機が熟せば物事は自ずと成就する。 逆もまた真なりというのが私の信念である。)

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