2011年8月16日火曜日

1961.7.18(火) 上野発夜行列車で一睡もせず

昨夜は一晩中遂に一睡もしなかった。 左側で美作、東と小山さんが話しているのが耳についたというか気になったせいもあるが、それよりもとにかく気が張っていて眠気が起こらなかったと言うべきであろう。 篠ノ井で下車、丸子まで二十円也の電車に乗り、バスで美ヶ原の麓まで行った。
途中、霧が深く、ときには雨かと思われるほどだったのでがっかりしたが、行くほどに晴れ間が見え深い谷なども見下ろせるようになったので嬉しかった。 途中下車して、思い出の丘で朝食を摂ったが、どうしても朝と言う気がしなかった。
美しの塔を経て山本小屋へ向かう途中、霧が深くなって道に迷いかけた一幕もあったが、無事小屋へ辿りつくことが出来た。 直ちに昼食の支度となったが、我々は専ら火起こし掛りで、炊事は一切女性に任せっきり、まことに申し訳ないようであった。
(8.28 疲れた・・・暫く休憩。 )

食後、大挙して散策に出かけたが、途中、バテた者が出たのでいろいろ相談した結果、二手に分かれて行動することになり、僕は、美作、若槻、黒川、高橋、大村、武藤らとともにバテ組に加わることにした。 折から空もからりと晴れ渡り、高原の気分を満喫することができた。
帰って一休みした後、夕食の仕度にかかったが牧牛がふらふらと何頭も迷い込んできたのには肝を冷やした。 おまけに場所柄もわきまえず交尾など始めたのにはぞっとした。 そのうちに水は止まるし全く恨めしい牛どもであった。

食後のキャンプファイアーの楽しかったことは全く筆舌に尽くせない。 恐らく生涯の思い出となる事であろう。 それにしても消灯になったとき、レインコートを被ったままバンガローから顔を出した黒川の姿の愉快だったことは、この夜の楽しさに更に一興を添えるものであった。

皆、小屋に入ってからも気持ちの治まらぬ連中(僕もその一人だった)が、十人ほどでまた上の牧草地まで登り、星を眺めながら暫く話をしたが、そのうち星がどんどん消えていくので驚いて懐中電灯をかざすと霧がさあーっと寄せてくるではないか。 気味の悪いことと言ったらなかった。 皆、泡を食って逃げ帰ったものである。 床に着いてからまた暫くくだけた話をしているうちに皆いつのまにか眠ってしまったらしい。

(注: 思えば随分強行軍だったようだ。 1年前、記憶を頼りにHPを書いた時、夜霧の恐ろしかったことは覚えていたが、牧牛の傍若無人な行為や黒川の珍妙だったらしい姿、それにもまして感激したと言うキャンプファイアーのことまですっかり忘れていた。 こういうことを思い出せるというのも日記と言うものの効用の一つだろう。 それにしても、美ヶ原高原の歌 "仰ぎ見る丘美ヶ原" を誰かのリードで歌ったことに全く言及がないのはさびしい。 多分、それほどパッとしないメロディーだったからだろう。 )

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1961.7.17(月) 出発当日のドタバタ

十時ごろ学校へ着いたがまだ誰も来ていない。 十一時近くなって、まず東が現れ、追々若槻、奥原の両者も姿を見せた。 学割を貰ってから四人で渋谷の喫茶に入りコーヒーを飲んでからツーリストビューローへ行った。 学割がなくなったと思って大騒ぎしたが、ポケットにあったので安心した。 その後またどっさり買い込み、また荷物の割り当てが増えてしまった。

荻窪へ帰ってから大急ぎで仕度し、叔父さんのところへ着いたのが6時ごろ。 ところがリュックだと思っていたのがナップザックだったとのことで、とても荷物が入りきらず、仕方ないので堺にリュックを上野まで持ってきて貰おうとしたところ、電話を掛けた時はもう出かけた後。 遂にピンチに陥り、叔父さんのスクーターで俵町の地下鉄乗り場までつれていってもらい、渋谷に急行。 飛ぶようにして北寮にかけつけ、あちこち探した末リュックを借り、急いで駅に戻ってみると停電で電車は停まったまま。 泣きっ面に蜂とはこのことである。 そのうちに動き出したが、神泉の駅でまた停まってしまった。 業を煮やしてとびだし、渋谷まで走った時の苦しさは一寸忘れられない。

国電で錦糸町まで行き、バスで横川橋まで乗り継ぎ、ようやく叔父さんの所へ戻ったのが8時25分頃。 一風呂(行水と言った方が良いかも知れない)浴びてまたスクーターに乗せてもらい、上野に着いたのは九時丁度であった。(杉山以外は皆来ていた)

時間があったので、杉山と寿司を買いがてら西郷さんの銅像を見たりして、戻ってきた時は皆席についていた。 くじを引いて席を割り当られた結果は、堺と島田、長沼両嬢と一緒ということだった。 アイスオレンジを食べたりして愉快に話をした。

(注1) たった一つのリュックのためにこれだけの苦労を強いられたということは、我が家の経済的余裕のなさというより、そのくらい当時の我々にとって物が貴重だったというに尽きる。
(注2) 叔父はラバウルから生還した後、ずっと墨田区本所横川橋というところに住んでいたので上野発の列車で出発する前進基地としては最適だった。 近くの太平町には王貞治の生家(太平軒といったと思う)があって、皆ワンさんと言って親しくつきあっていた。 いずれも押上げと錦糸町を結ぶ大通りの途中にあったが、今どうなっているかは知らない。
(注3) 上野駅は、啄木ではないが、私にとっても故郷への玄関駅で、西郷さんなど小学生の頃から見慣れていたが、関西出身の杉山にとっては、見て置きたいものの一つだったのだろう。
(注4) この合ハイがきっかけで、後年二組の夫妻が誕生することになるが、この時の席割りが影響したかどうかは知らない。

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1961.7.16(日) 合ハイ前日・・・中野駅で最終打ち合わせ準備

中野駅に着いたのが12時ごろ、それからやっとのことで40分ばかり潰し、改札口へ行ってみると東が待っていた。 そのうち女性側も何人か集まったので、一まず僕が彼女らを案内することにした。 着いてみると大村、高橋の二人が既に来ており内心ほっとした。 団体割引コーヒー一杯で暫く相談し、中野駅で解散した。 もう明日を待つばかりだ。

(注: 中野駅南口の駅を背に左手の路地を斜めに入ったところの喫茶店だったと思う。 私自身、初めて入った店だったが、もしかしたら、地元・・私の散歩の東限だった・・の土地勘を買いかぶられたとしても不思議はない。 しかし団体割引コーヒーのノウハウまでは持っていた男だったとすると都内出身者だろう。)

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2011年8月14日日曜日

1961.7.14(金) 試験が終わって、さっそく合ハイの準備

2時ごろ学校へ行って北寮前のベンチでパンを食べていたら、東、奥原、若槻と宮部、小宮(初顔合わせだった)の両嬢が来て、やあ、ということになり、後、生協や東横、東光ストアなどで一緒に買物をしてから、各自、荷物を分担して渋谷で別れた。

(注: 1年前にこのブログを書き始めた時は、一々日記を確かめる気力も体力も無く、大動脈解離手術後の殆ど寝たきりのベッドの中で思い出すままに書き綴ったので、自分は幹事達とは殆ど関わり無く、ただ乗りしていたのだろうと思っていた。 あれから1年経って、こうして当日の日記にまで辿りついた見ると、ああそうだったのかと思うことが多い。 あらためて思うのは、自分も結構それなりの役割を果たしていたらしいということだ。)

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2011年8月13日土曜日

1961.7.13(木) 前期試験は最初から一夜漬け

昨夜は徹夜するつもりだったが、やはり睡魔には勝てず、2時半ごろ眠ってしまった。しかし、それでも5時ごろ目を覚まし、それから2時間ばかりで一通りおえることができた。 登校したのが8時10分前ごろで、まだ30分以上もあるので、20番で一通りまた目を通すことが出来た。
問題は3問あり、①は価値と限界収入、②はカルテルと競争、③は自発的失業と非自発的失業、であった。 このうち一題を選択せよとのことで、最も書き易いと思われる②を選んで裏表いっぱいに書きなぐって片付けた。 そう悪い出来だったと思えないが果してどうであろう。

(注: 今から思うと教授の都合による繰上げ試験とはいえ、ずいぶん親切な出題振りだったと思う。 要するに何か書きさえすれば "良" くらいはやろうという意図が見え々々である。 私が東京情報大学で出していた問題の方が余程難しいくらいだ。

題目から見ていわゆる "マル経" だったことは明らかであるが、後で知ったのは、 "マル経" の試験では反マルクス主義的回答はタブーだったらしい。 しかし、私の主義からしてマルクス迎合的な回答をするくらいなら "不可" でも取った方がましだと思っていた。

これが認識不足の全く甘い了見であることは、後期以降、必修科目の大半が "マル経" で、軒並み懲罰的な "可" をつけられことで判った。 さらに、これが "懲罰" を意味していたことは、4年生になって就職面接に赴いた際、人事部長らしき人から、「"可" なんか取る学生は見たことがない・・」 と言われてやっと気がついた。

と言うことは "全優" で主要官庁や業界トップ企業に行く連中は、多分、学問そのものには全く関心がないに違いないと思ったものだ。 こういう連中が "福島原発事故" などで責任を持って対処するはずがない・・・と言ったら言い過ぎか。)

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2011年8月9日火曜日

1961.7.12(水) リサイタルの後は繰り上げ試験

何だかだと言っているうち、とうとう試験が明日に迫ってしまった。 結局、また一夜漬けということになるわけだ。
・・・・
・・・・

井の頭線の駅で東に肩を叩かれたが、相変わらず気さくな男である。 先日のリサイタルの写真を見せてもらったが、パンフレットにあるのに比べると、キリッとした顔立ちで仲々の美人に見えた。

220番で少々勉強して引揚げた。


(注: 午前中、インターン中の兄に歯の治療をして貰うため上京した母を浅草まで送って行ったことが書いてあるが、私事に属することなので省略する。)

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1961.7.7(金) 東の姉敦子さんの渡欧記念リサイタル

二限から昼休みに掛けて図書館で奮闘し、英語2頁半、独語3頁ほど片付け、さあ来いと授業に臨んだが、どちらも当たらず全く張り合いが無かった。
放課後、堀篭、山口とアンデス文化展を見た。・・・・
・・・
淵上と東横へ・・・
そのまま都電で九段まで行き、ザルの大盛りを平らげた後、リサイタルに出かけた。 東、奥原、門野のトリオが居た。 待っている間に波多野さん(東女)の姿も見えた。
渕上は高校の友人らしい人達と一緒に二階へ行ってしまうし、何か取り残されたようで惨めな気持ちがしたが、東の明るい隔意のない態度だけが救いだった。

皆は最前列の指定席へ行ってしまったので、後のほうで一人で最後まで聴いていたが、どうにも場違いのような気がして仕方なかった。 しかし、リサイタルはともかくそれなりに素晴らしいものであった。 来てよかったと思うと同時に東一家の幸福を祈りたい気持ちだった。

(注1) 東敦子(故人)とは、欧州で大活躍したソプラノ歌手であり、後年、東京音大教授時代に池田理代子が師事したことでも有名であるが、この時はまだ全く無名であった。 しかし芸大大学院の首席として在学中から嘱望されつつあったらしい。 イタリー政府の招待留学生として渡伊することになり、記念リサイタルを九段会館で開催した時のことである。 東は始め高校時代からの友人や都内出身の級友だけ呼んだらしいのだが、どういうわけか直前になって私にも声を掛けてくれた。 多分、駿台以来の同級の誼みと2浪同志の親近感からだろう。 日記には書いてないが江田も後から駆けつけてきたような記憶がある。 勿論、員数あわせなどではない。 立錐の余地もない盛況で、私は最後列の後ろで立ったまま聴いていたような気がする。

(注2) 芸大声楽科(だけではないかも知れないが)のトップがイタリー政府の奨学金を受けて渡欧するということは当時の私にとっては雲の上の出来事でまったく別世界に入り込んだような気持ちだったが、後年、娘の中高時代の親友(二期会所属の石上朋美さん)が、同じコースで渡欧することになり、そのステータスの何たるかを改めて知る事になった。 東には直接関係のないことだが、私としては不思議な縁を感じている。 あらためて 50年前の彼の好意に感謝したい。


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1961.7.6(木) 袖振りあうも他生の縁

経済学の時間、少し遅れてきた杉山と一緒になった。そのまま昼まで図書館で一緒に過ごし、昼食後、27番のところで杉山に会い、一緒に覗いてみると・・・・・

3限の野島さんが終わってから杉山と書籍部へいったところが、全く予期しないことが起こった。 Pが居たのである。 杉山と2人で何だかんだと、かれこれ二~三分中に居たと思うが、その間 Pもずっとそこに居たわけで、こんなに長い間、彼女と一緒に居たのはこれが初めてであった。 しかも杉山のお蔭で彼女に僕の名前を知って貰うことが出来たのである。(もし、彼女が期待通り僕に関心を持っているとしたら、あの時の杉山の呼びかけを聞き逃したりはすまい。) 今後の課題は何といっても彼女の名前を知ることである。 それさえ判ればあとは杉山の名簿を見せてもらうなり何なりして・・・・
・・・・・
それにしても、Hが趣味に茶道とは恐れ入ったしだい。 なるほど、インスタントコーヒーなどは文字通りお茶の子さいさいという訳である。

(注1) 27番教室を一緒に覗いたというのは、例によって杉山が、自分一人では気が引けるといってつき合わされたからである。 彼も口で言っていることとは裏腹に、いざとなるとすっかり弱気になるのが恒だった。 関西の超名門校とはいえ、彼の母校も男子校だったので、女子に気軽に話しかけるような日常ではなかったからかも知れない。 しかし、基本的には性格の問題だろう。 私の母校も男子校で女子高生と付き合うこと自体が不良行為と見なされる土地柄だったが、クラブ活動と称して抜け道を見つける連中はうようよ居た。

(注2) 杉山の名簿というのは、彼が適当な口実で教務から手に入れた文2-5Dの名簿のことである。 それにしても、お互いの名前を知り合うだけでこれだけ手間取るということは、今の若い人達には理解しがたい気狂い沙汰に思われるかも知れない。 しかし、きちんと素性のはっきりしたした相手ときちんとした形で知り合いたいという気持ちは、今も昔も変わらないと思っている。 高学歴団塊二世の結婚難の背景にはきっとこういった壁を越えるための社会的仕組みの不在があるに違いない。フェイスブック(facbook)が米国のハーバード大学を中心に拡大の一途を辿りつつある理由の一端もそこにあるような気がする。

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2011年8月8日月曜日

1961.7.5(水) 駒場バライアティー・・・あれやこれやで一日終わる

山手線で黒川に会う。学校につたのは 9時ごろだった。 210の日本史に出てみたが面白いことも無さそうだったので後ろから抜け出してしまった。

3限の体育が終わってから、黒川、若槻とお茶のみ場脇の水道で手を洗っている時、アーケードから220番の方へ行く H さんが見えた。

4限は杉山と沼野井さんの生物を聴いた。 すぐ後ろの席に平岡さんの 3語に出ていた女の子がいた。見れば見るほど NM さんを思わせるような人だった。

・・・・・
放課後、杉山と書籍部へ行った所、青っぽいワンピースを着た女の子がいて、何となく P に似ているような気がしたので注意してみていたところ、振り返ったのを見ると例の生協の女の子だった。 それにしても実に上品で、聡明かつ清楚な印象を受けた。 今更ながらどうしてこの人が東大生でないのか不思議な気がした。

(注1) H さんというのは、I(インスタントコーヒー)だとか S(元スチュワーデス)だとか取りざたしていた女子学生で、その後、イニシャルが H だと判明した人のことだが、姓名のはっきりした人は "さん" 付けで書くことにしていたらしい。 NM さんというのは駿台で同級生(?)だった人であるが、東大入学後は見かけなかったので、他校へ入ったのかと思っていた人のことである。 果たしてこの人が NM さんだったかどうかは、確信を持てなかった。

(注2) 生協の麗人のことは、前にも
6月3日の日記に書いた。 若しかしたらアルバイト学生だったのかも知れない。 とにかくこの人を差し置いて、他の女性(男性も!)が東大生を標榜するのは冒涜だ、と思ったのは私だけだろうか。

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1961.7.4(火) 時には学業のことも

起きた時はもう 8 時、到底間に合わないと思ったのでゆっくり仕度し、登校したのが丁度十時、遂に地学を一回さぼってしまった。
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昼休みに図書館から馬場と一緒に教務の所へ来た時、前の出口から(本館の) H、少し遅れて P が出てくるのにあった。 白のワンピースを着ていた。
MK さんには 3度会った。一度目は二限の前に 300番の方へ行くところ、二度目は図書館前、3度目は本館の正面の階段下・・・
・・・・
4限は、小柳との約束もあり出席した。 4人位しか出ていなかった。 O さんの姿も見えなかった。駅で待っていると全く思いがけないことに P がいつもよく一緒にいる男と矢内原門の方から来るのが見えた。今日は 3限までの筈なのにどうしたことであろう。 
・・・・

志望届の集計が発表されたが案外低いので安心した。
それにしても教養学科の科学史コースというのは一寸興味がある。 いつか内容を調べておいて夏休みにでもよく相談しよう。

(注1) O さんというのは、MK さんと同じく駿台時代の同級生(?)である。 P と一緒の男というのは誰だか卒業するまでわからなかった。 この日記では女子学生の誰彼のことばかり出てくるが彼女らが誰と一緒にいようと嫉妬の感情が沸いたことは殆ど無かった。

日記の記述行数を見る限り、①女子学生の誰彼の消息が 3割、②クラスメートの誰彼とどうこうしたというのが 2割、③中高時代の同級生のことが 1割、④下宿先での散歩やラジオ番組などが 1割、⑤家族のことが 1割、⑥学業関係が 1割、⑦その他1割・・・ といった感じで、とてもまともな学生生活を送っていたとは思えないが、実際に費やした時間と労力は、①②③の合計、④⑤の合計、⑥⑦の合計が、夫々とんとんだったのではなかったかと思う。

要するに学問と教養のために使った時間は、せいぜい三分の一位だったことになる。 もし⑥⑦の割合が二分の一以上だったら、私の HP で畏友と謳っている連中と肩を並べていたかも知れない。

(注2) 僕が仏語を最後まで続けられたのは小柳が居たからだろう。 語学には元々興味があり、一時は、露語、伊語、西語、羅語(希語も挑戦してみたが一月も経たないうちにやめてしまった。未だに辞書も持っていないし読み方もわからない。)まで首を突っ込んだが、前の二つは歌を原語で歌える程度。 後の二つは、発音の仕方と字引の引き方を覚えた程度で終わってしまった。 それでも後年、三流の大学教授として、大石先生に言わせれば論文の名に値しない論文もどきの雑文を書くのには結構役立っている。

(注3) "志望届の集計が案外低いので安心した" というのがどういう意味だったか覚えていないが、おそらく好きな所へ行こうと思えばいけたということだろう。
教養学科の科学史コースには本当に興味があった。 行かなかったのは、学者になれるという自信がなかったことと、これ以上親に負担を掛けて遊んでいる余裕が無かったからである。

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2011年8月7日日曜日

1961.6.26(月) 近くのH嬢より遠くのお茶大生?

十一時ごろ登校して、図書館へ行ったところ、杉山、大竹と会い、話しているうちに杉山が小さい辞書が欲しいからと言って協組へでかけたので、暫くしてから僕も行ってみることにした。 11番の東側の辺りまで行ったとき、向うから杉山が買ったばかりの辞書を片手に戻ってきたので、また一緒に図書館へ引揚げようとして振り向くと、すぐ後からやって来た H とばったり行き会ってしまった。

服装が変わっていたので、始め僕は別人かと思ったが顔を見ると確かに H であった。 それはともかく、問題はそのときの彼女の態度である。 何か当惑したような・・と言うより虚を突かれて狼狽したようなあの素振りが何も意味しないなどと考えるのは全く困難であり・・・ 

なるほど、こういう態度を何度も見ては、杉山があんなことを言うのも無理はないと思った。
・・・・・
いずれにせよ、彼こそは我クラスにおける一珍人物たる資格に欠けるところはないであろう。

(注: 後に、これは、残念ながら彼に対する好意の証拠ではなく、むしろ彼の一見、自信満々の態度に対する困惑に近かったことが判明したが、当時の我々には、知る由もなかった。)


4限は黒川らと共にサボり、美作、武藤と4人でお茶大の女の子達との相談に出かけた。 渋谷でコーヒーを飲みながら 1時間ほど駄弁った後、新宿中央口へ出かけた。 30分ほど待たされた後一緒になり、またコーヒーやソーダを飲みながら話をした。

結局、もっと資料を集めなくてはと、鈴木、長沼の両嬢&黒川、武藤の4人と共に三越前の長野県出張所まで行ったが、閉店の 6時にわずかに遅れて目的を達せず、武藤と別れて 4人で東京駅まで歩き、そこの総合案内所で漸く調べることが出来た。

後は鈴木さんから美作のほうへ連絡してコースを選定して貰うことにして別れた。 鈴木さんは毎日2時間もかかる茅ヶ崎から通っているとのことであった。

東京駅へ行く途中、長沼さんが桐生に親戚がいると言ったことから野球の話までとび出し、全く世の中は狭いものだと思った。


(注1) お茶大との合ハイの記事は、昨年9月25日の朝日朝刊 "サザエさんを探して" に掲載された。 ここに挙げた4人と私の顔も映っているが、どれが誰かは言うわけにいかない・・・?
取材の依頼メールが来たのは8月末だったが、体調が悪く、2週間ほど経ってから気がついたときは原稿締め切り直前だったため電話取材で済ませた。 その時はまだ、自分が幹事役の一人だったことも忘れていたので、不得要領の結果に終わっているが、記者は、この写真に惚れ込んで是非載せたいと言うので、私が全責任を負うということで承諾した。

あれから間もなく 1年になるが、誰からも文句は来ていない。 多分、だれも読んでいないからだろうと思っていたら、10年前に前立腺癌で全摘手術を受けたあとずっと経過観察を受けている執刀医から、"あれは関口さんですか" と言われてびっくりした。 まだまだ ネットより新聞や TV の影響力の方が圧倒的に大きいことを痛感した。 facebook 時代になってこれが変わるかどうか、予断は出来ない。

(注2) 鈴木さんから 2時間かけて通学していると聞いて驚嘆したが、後年、私自身が選りによって茅ヶ崎に住み、3時間かけて千葉市にある東京情報大学まで通勤することになるとは・・・ 隔世の感ありと言うしかない。

(注3) 桐生と野球の話が出たのは、昭和30年(1955年)の春の甲子園で浪商との決勝戦まで勝ち進み、2対2で延長戦に縺れ込んだ末、敬遠で出塁した浪商坂崎の生還を許して3対2で惜敗したばかりだったからだ。
当時、桐生高校への入学が決まっていた私達は、連日登校し、講堂で NHK 取材班の報道に興奮していた。 準優勝旗を持って桐生駅頭に立った今泉-田辺バッテリー以下、TVで すでに顔を知っていた先輩達を尊敬の目で見守ったものだ。 入学後、修学旅行の日程を急遽変更して甲子園にかけつけ、最後まで応援して帰ってきた 3年生 300人余との対面式では、私が新入生を代表して挨拶することになった。
"・・・私達は、桐生と甲子園に遠く離れていましたが、共に桐高ナインを応援することで、同じ桐高生としての誇りを感じていました・・・"

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1961.6.24(土) "愚図" の効用?

今夜のクラシック

ト調メヌエット ベートーベン
愛の夢     リスト
ワルツ嬰ハ短調   ショパン
マドンナの宝石 間奏曲  ヴォルフ=フェラーリ
オクラホマ から  おお美わしき朝  ロジャース


地学が終わったあと、一わたり見回してみたら見慣れない服装の女の子がいたような気がしたが、・・・・それが Pだった。 協組から裏を抜けて北寮の売店へ行ったら、水飲場のところで友達と話しているのが見えた。 ・・・サークル連絡板の所でポスターを見ていたら Pが傘をぶらぶら振りながら・・・

帰りにまた会えるかと思って期待していたが、テントのところで石川と話をしている間に帰ってしまったらしい。 だが彼女が地学をやめてしまったのでなかった事が判っただけでも大きな収穫だった。 帰りがけに教務で 5D の女子の名前を調べたが、可能性のあるのは結局 4人であった。 つまり、KK、FM、KM、MM である。 このうちの quelle であるか・・・。

昼休みにアーケードのところでまた MKさんに会った。 それもすぐ目の前でである。 一瞬どきっとしたが、暫くするとまた P のことで頭がいっぱいになってしまった。 実際、こんなに簡単に MKさんから心が離れてしまうとは・・・・・。 実際以上に彼女を美化し理想化していたのが、今こうして Pが現れるに及んでその錯覚であったことを露呈したということであろうか。
・・・・・
また一つには、僕の彼女達に対する関心というものが結局、生涯の伴侶たるべき人としてのものでなく、いずれは別れなければならない青年時代の思い出の人としてのそれであることも、こうした不安定な気持ちを助長するのに与っているのであろう。

(注1) 協組だの売店だののことをくどくど引合いに出すのは当時の構内の様子を思い出したいからである。
(注2) 石川というのは後に静岡県知事として郷里の国際化のために奮闘し、自らの地位と刺し違えて富士山静岡空港を開港させた石川嘉延である。 そのとき彼と何を話していたのかは記憶がない。
(注3) この頃から Pへの関心が MKさんへのそれを頭の隅に追いやり始めた様子が日記の文面からも読み取れる。この傾向は本郷へ進学してからも続いたが、ときおり、御茶ノ水からのスクールバスで MKさんと一緒になったときなど、とても平静では居られなかったことを思えば、最後に2人のどちらとも口一つ利くことなく別れる日まで、心は揺れ動いていたのだろう。

一方、彼女達は、その間にもはっきり進むべき道を決めつつあったらしいことは、私もうすうす感じており、敢えて独りよがりの思い出に甘んずることに決心しつつあった。 今から思えばさしたる障害があったわけではないが、当時の私にとって一人の女性を選ぶことは修行僧が出家を決心する時のような重大事に思えたのである。 しかし、何事もなく別れたからこそ、50年後の今、こうして後ろめたさを感じることなくノスタルジーに浸れると思えば "愚図" の効用も捨てたものではなかったなと思っている。
(注4) 教務で Pの可能性のある女子学生を KK、FM、KM、MM の 4人に絞ったとあるが、当時は今のようにプライバシーがどうとか言う時代ではなく、全クラスの履修科目リストが閲覧できるようになっていた。 実際、友人達と同じ科目をとりたいときとか、また何かの行事の日程を決める時とか、結構、重宝していた。 勿論、私のように動機不純な輩も少なくなかったろうが、それで問題が生じたという話は聞かない。  

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2011年8月5日金曜日

1961.6.23(金) 奇跡的一日

人類学が終わってから、アーケードへ行ってみると、松村先生休校とある。大喜びで堀篭と暫く散歩し、昼食前にもう一度来てみると、岩淵先生休校の紙を張っているところだった。全く驚くべき奇跡だと欣喜雀躍した次第である。
3限は杉山と図書館で過ごし、2時20分から矢内原さんの講演を聴いた。肝臓病を冒しての来演だったとのことで感激した。演題は、”人生の選択” 僕にとっては今更何と言うこともない話ではあったが、ともかく人格者の接することは非常に有意義なものである。

(注: 松村先生というのは我々のクラス文一六組独語クラスの担任だった方で、授業科目は英語だった。 テキストに使ったのは、E.M.Forster の "The Eternal Moment" だった。私のHPの英語タイトル "Our Eternal Moment" は、これに因んで.付けたものである。 矢内原元総長の講演は、前にも一度、母校桐生高校の講堂で聞いたことがある。その時は、ただ、体のやたらでっかい人だなとしか思わなかったが・・・。 大体、偉い人の講演と言うのは話の内容はどうせ大したことはないもので、それよりその人の人格を感じ取ればよいのだ。)

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1961.6.22(木) 休校転じて繰り上げ試験!

相原さんにはすっかり参った。近いうちに休校になるような口振りだったので喜んでいたら、講義の終わりになって繰り上げ試験を13日にやるなどと言い出したので、それこそ喜んではいられない事になってしまった。まあ、九月の試験がまた一つ減ったと思えば嬉しくないこともないが、どっちにしてもあまり楽なことではない。

昼休みに杉山、武藤、小柳らと杉山の言う所にしたがって27番を覗きに行った所、はからずも P が友達と一緒に出てくるところにばったり出会ってしまった。と言うことは、つまり P も 5D だということであり、H と同クラスだということである。・・・・ なるほどこれで二人がよく一緒にいるのも合点がいくというものである。

(注: 相原さんの科目は独語だったと思う。27番覗きの件は、多分、杉山が H のクラスを確かめに行くから付き合ってくれとでも言ったのだろう。さもなければ武藤や小柳のようにまじめな連中が、のこのこ一緒について行ったはずがない。)

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1961.6.21(水) 学生にもピンからキリまであるなあ・・・


30番の講演を聴こうとしたがなかなか講師が来ないので退出し、40番の物理を聞くことにした。3時半ごろそこも抜け出して24番のところでエスペラントの講習会を一寸覗いてみたら、誰か学生が壇に立ってやっているので感心した。丁度そのとき、後ろで杉山の声がしたので・・・・
教組の書籍部からクリーニング部を経て北寮前から矢内原門へ向かったとき、外から入ってきた H に出会った。大分日焼けしていたが相変わらず美人である。誰か友達と一緒だった。杉山はしきりに悔しがっていたが・・・

(注: エスペラントの講師をやる男と、それに感心しつつも女子学生の誰彼が気になる我々では、同じ東大生でもピンキリもいいところだった。)

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1961.6.20(火) 三日坊主・・・女子大生亡国論は正しかった?


やはり地学には出ていなかった。・・・もう3回くらい欠席が続いている。しかも次の講義には出ているのだから、ことによるとやめてしまったのかも知れない。ちょっと残念だ。
・・・
・・昼休みに図書館で、木村、内田と三人で辞書を見ながら遊んでいたら H が来て少し離れた所に席をとったが、暫くしてから出て行った。法学の講義に出るのだろう。
3時間目はどうしようかと大いに迷ったがどうしても気が進まずさぼってしまった。その前に九大前のベンチで休んでいたら、すぐ前で女の子の声がするので、見ると H である。誰か友達に話している所で、"私、ロシア語やめちゃったわ。あきらめた。" とか言うのが聞き取れた。

(注1) 地学に出ていなかったと言うのは P、ロシア語をやめたのは I・・先日の "誘導尋問" で I のイ二シャルが H であることが判明していた・・である。 必修科目以外に対する女子学生の熱意は大体こんなものだった・・と言ったら言い過ぎか。
(注2) 木村、内田はともに勉強家(そうでない東大生がいたかどうか知らないが)だったが、木村は経済学部から某大銀行、内田は法学部から大蔵省へ入った。内田がワシントンから帰任し銀行局調査課長になったとき、丁度、私は富士通総研を設立した直後で、イベントの講師を物色していたので、早速彼に一くさり喋ってもらったことがある。
大体、世の中の所謂、総研などと言うものの実態はそんなものだ・・と言ったらこれも言いすぎか?

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1961.6.19(月) やっぱり小柳は偉かった!

NHKのクラシック
トスティ  珊瑚の歌

例によって桜の木の下に寝ころんで気持ちよく歌を歌っていたら・・・
・・ 後から来るだろうと思っているうちすっかりそのことを忘れ、"帰れソレントへ" をイタリー語で(それもかなり大きな声で)歌っていたら急に足音が聞きえたので、はっとして歌をやめ、見るとすぐ側を P がPar. をさして急ぎ足で通り過ぎる所だった。
・・
四限の仏語は、大竹、黒川以下、皆さぼり、小柳だけになってしまい、しきりに止められたのだがどうしても気が進まず一旦教室に入りながら逃げ出してしまった。小柳には悪いことをしてしまった。

(注1)一人で散歩している時など大声で歌を歌うのは、子供の頃からの癖だった。 HP の10の挿話(その1・・・1958年18歳の夏)でも同じような気恥ずかしい経験を書いた。
(注2)一応人並みに授業には出ていたらしい。小柳と学期末まで付き合ったのは私だけだったと思う。

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