2012年2月25日土曜日

1962.1.8(月) 一大決心も何処へやら・・・遇うのが怖い

学校へ着いたのは10時20分頃。・・・ 28番へ行ってみると案の定休講、 アーケードへ行ってみると憲法も休講で、全くはぐらかされてしまった。12時時頃、110番からアーケードを見ていると、小柳が見えたので久闊を叙し、一緒に協組の方へ行くと、丁度書籍部の前で Wistaria に会った、 実に清楚な感じだった。・・・・
ノート売り場で武藤に会い、3人でホールに行きタンメンを食べ、小柳と別れ2人で図書館で少し勉強した。 2限が始まってから600番の方へ行って様子を見たところ、休講らしくがらんとしていた。 30分程して図書館に戻り、本を取って出ようとしたところ、2~3列後の反対側の席に彼女がいるではないか。 しかも幾分笑みを含んだその表情は、確かに僕を認めていたようだった。 全くこれほど驚いたことは嘗て無かったろう。 走るように逃げ出し、本館に入ってしまってからもまだ足ががくがく震え、口は訳のわからないことをきりもなく喋り続けていた。・・・・・・
・・・・・・・・・
ともかく今日は初日から寿命の縮まる思いをさせられたが、あの時の彼女の顔つきは、考えれば考えるほど不可解である。 あの笑いは軽蔑しているのか、好意なのか、それとも自己満足なのか、全く見当がつかない。 しかし、どう考えても僕を不快に思っているようなところはなかった・・・・
では一体どうして返事をくれなかったのか、となるとまたまた判らなくなってくる。 結局一大決心をして書いた手紙も何の役にも立たなかったことになる。
何としても恨めしいのは、はっきりしてくれない彼女の態度である。

やはらかに 積もれる雪に 熱る頬を 埋むるごとき 恋してみたし ・・啄木

(注: "一大決心" が聞いて呆れると言うしかない。 我ながら何とも不甲斐ない体たらくであった。 仮に彼女が、私からの手紙を好意的に受け取ったとしても、それだけでいきなり返事を出すのは躊躇するのが当然である。 それを全て悲観的に解釈して逃げ出すだけなら未だしも、自分のことを棚にあげて "彼女がはっきりしてくれないのが恨めしい" などと思うにいたっては、すでに先が見えていた。
要するに私は空想の世界に留まったまま、一人相撲を取っていただけだったのだろう。

小学校時代、教室で一度も手を挙げて意見を言ったことが無く、質問もしたことが無かったため、通信簿に "この消極的性格のままだと、将来損をする・・・" と書かれたことがあったが、4年~6年までクラス担任だった岡部弘道先生には私の弱点がよく見えていたに違いない。 )

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2012年2月21日火曜日

1962.1.6(土) バスで上京・・・お互いの距離に途惑う。

一昨日の約束どおり、四時までに横町のB.S.へ行く。 バスを待つ間に小山先生にお会いし、そのうち金子さんも来たので、3人でバスが来るまで話し合った。 金子さんのお母さんと小山先生は、女学校時代、同級だったそうである。

バスの中で、東京駅までの約4時間の間、久し振りにざっくばらんな話をしたが、例の受験生は聞けば聞くほど僕に良く似ているのでおどろいた。 驚いたと言えば〇〇さんの根気の良さにも驚いた。 全く蛇のようなとは、あれを言うのだろう。・・・・・

電車の中で、"関口さんは、私とは次元の違う世界に住んでいるんだわ。 本当に良い人なのね。 もっと悪い人だったら私もはっきりできるんだけど・・・・・ 私は悪い女なの・・・" というような不可解なことを言われたが、いったい何を言おうとしているのか、僕には皆目見当がつかなかった。

(注: 横町・・よこまち・・のバス停は、金子さんの家の有る横山町から本町通りへの出口に在り、清水先生の家からはさらに近かった。 そこで待っていたら、西中時代に数学?を担当されていた小山静江先生が通りかかったと言う次第である。

例の受験生とか、〇〇さんとかいうのは、金子さんを通して知り合った早大がらみのユニークな男子学生達のことで微かに記憶が残っている。

国電の車中で彼女が呟いた言葉は、一般的にはプライバシーに属する事柄かも知れないが、彼女に無断で公開することにしたのは、それが私たち2人に固有の関係と言うより、同年代の男女が置かれた立場の相違から来る、一般的な意識のギャップではないかと思ったからである。

勿論、色々な解釈がありうるが、私自身はこう考えている。
例えば、女性は、基本的に限られた時間の中で、結婚、出産というような極めて現実的な結論を出さなければならないが、男性は、自発的か非自発的かは別として、非現実的な目標を追い続けることが出来る。 私の例で言えば、中学・高校時代からの目標は、"1961.12.24(日)初めてのプロポーザル???" の(注)で触れたように
因果必然の科学的モデル化(Scientific Modelling of "ZEN" Concepts) という雲をつかむような途方もない話だったのだから、金子さんに限らず、男女を問わず同級生の誰もが、違和感のようなものを感じていたし、私自身、一種の疎外感に苛まれていた。 そんな妄想のような使命感に囚われている青年に、危惧の念を抱かない方がおかしかったろう。    

それにしても、実際のところ、未だに不可解だというのが正直な気持ちである。

若しかしたら、それは、漱石の 「三四郎」 で、美禰子が三四郎に対して呟いたという言葉・・・「我はわが愆を知る。わが罪は常にわが前にあり」 と同じような意味を持っていたのではとも思うが、「三四郎」 の文中でも、その真意は謎として残されたままである。)

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2012年2月20日月曜日

1962.1.3(水) 恩師宅へ年始の挨拶に・・・

1時20分頃、清水先生のお宅へ伺ったところ、金子さんも来ていたが、先生は、あいにく前橋の方へ年始回りに出かけていてお留守とのこと、そのまま挨拶だけして引揚げ、岡公園で暫く話をしてから、北小裏まで下りて別れた。 六日の午後、広澤回りのバスで上京する約束をしたが、金子さんと一緒に上京するのはこれが始めてである。

(注: 毎年、正月に帰省した折には、桐生市立西中学校3年4組の担任だった清水先生のお宅へ年始の挨拶に伺うのが恒例になっていた。 そこで金子さんと鉢合わせしたと言うわけである。
その頃、先生は、前橋の群馬大学付属中学校に赴任しておられ、毎朝、暗いうちに家を出るのが大変だったらしい。

"岡公園" と言うのは、先生や金子さんの家から一足のところにあり、岡全体が公園になっていて、子供の頃から、それが正式な名称だとばかり思っていたが、インターネットで検索すると、"桐生が岡公園" となっている。 子供の頃から聞いた覚えがないので、元々そうだったのか今でも疑っている。 北小とは北小学校のことで、金子さんの母校である。 北中というのが有ったのか無かったのか、有ったとしても、なぜ彼女が西中に来たのかもよく覚えていない。 因みに、戦後、坂口安吾が下宿していたことで有名な "書上家" の広大な屋敷もこの一角にあった。

東京行きのバスには、渡良瀬川の左岸沿いに足利まで行き、渡良瀬橋を渡って熊谷へ抜ける足利回りと、市内の昭和橋を渡って右岸の広澤へ抜け、太田経由で熊谷に到る広澤回りの2つのコースがあった。 太田経由では、左側の長いコンクリート塀の向こう側に、旧中島飛行機工場の巨大な廃屋が見えたが、コンクリートの壁には、いたるところに機銃掃射によって貫通された穴が開いていた。)

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2012年2月18日土曜日

1962.1.1(月) 桐生で東大新人歓迎会

10分ばかり遅れて行くと、もう 6~7人来ていた。 近藤、寺田(尚)、叓子(ことじ)らの顔も見えた。 紅一点は、勿論、佐藤であろうが、非常に大人に見えた。 結局、集まったのは11人で、初めての顔は、大出、周藤、韓、岡、佐藤、宇野、福田の7人だった。・・・
・・・・・
帰りに、大出、福田を除く 9人で "天狗" の2階に乗り込み、お定まりの恋愛論などしたが、韓と言う男は意外にくだけた面白い男で、特に理一の女の子の身元調べの話などは、全く傑作だった。
岡君(あまりに真面目なので、呼び捨てにするには忍びない)は、小・中・高校ともに僕と同じで、・・・驚くほどMKさんに似ていた。ワンゲルに入っているとのことで、大竹を良く知っていた。
・・・・

(注: 桐生で前年4月に東大に入学した新入生の歓迎会をやった時の様子である。 以下、延々と愉快な飲み会の話が続くが、限がないので割愛する。 大出、福田の両氏は既に卒業していた先輩であるが、後は皆、私と同級か後輩ばかりだった。
岡(友宏?)君は市内の内科医の息子で、小中高校を通して私の後輩だったそうだが、3学年下だったのでずっとすれ違いだったらしい。現役で理2に入り、医学部を目指していたが、私が本郷へ行ってから家庭教師として教えた学習院高校一の秀才、鹿園直建君のような学究タイプの好青年だった。

"天狗" というのは、私の家から100メートル位の所にあった飲食店の屋号である。
50年前には毎年、桐生から何人か東大に入っていたので、一月一日に新人歓迎会をやっていたが、今はどうなっているか知らない。

ところで、全国、何処でも、どの会社でもそうだが、早大の稲門会、慶大の三田会、一ツ橋大の如水会等は有っても、東大の公式な同窓会は無いか、仮に有ったとしても、全員が入っているとは限らない。 それに代わるものとして旧帝国大学の合同同窓会として学士会があるが、これは、帝国大学卒業生だけに学士号が与えられた時代の名残である。

因みに私の卒業証書に載っている大河内総長の署名の肩書きは、一応 "経済学博士" となっているが、その前に "学士" と大書されている。 博士号は一家を成した大学者に与えられるものであり、学歴としての博士号など殆ど無視されていた時代である。

とくに文系では、学年トップクラスの大秀才は、卒業と同時に助手に採用されてしまうので、そのまま教授⇒学部長まで行ってしまう人さえ居た。 私が、55歳で長年勤めた富士通から東京農大系の東京情報大学に転職する際、修士号すらないのに教授として採用されたのもその七光りのお蔭である。)

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2012年2月17日金曜日

1961.12.24(日) 初めてのプロポーザル???

昨日一日中かかって手紙を書いたが、今日はその清書でまた半日かかってしまった。 結局、3時頃速達で出して来たが、今になってみると全く空恐ろしい気持ちがする。 休みが終わって学校へ出て行くときの事を考えるとぞっとする。

恐らく、始めから問題にされず簡単に拒絶されるに違いない。 そうなると今までのように校内をのうのうと歩き回っては居られなくなる。 とにかくこれまでとは完全に逆になるわけで、今度は何よりもまず、彼女に会わないことを心がけねばならず、結局、教室に閉じこもって勉強せざるを得なくなるから、その意味では無駄ではなかったと言うことになろう。しかし、そのときの屈辱(と言うより恥ずかしさ)は、一生忘れられないだろう。
・・・・
ともかく現在の僕にとっては、どうしてもそれが必要であったのだから、よくその打撃にたえ、所期の目的を達成するよう努力することが肝要である。

(注: 後年、コンピュータ会社のいわゆる SE になってからは、プロポーザルを書くのが日常茶飯事となったが、この時ほど結果に恐れ慄いたことはない。 それが証拠に、後半は、Reject された時の言い訳と対策ばかり延々と続き、少しも夢が語られていない。 富士通時代、上司に、"プロポーザルは手堅いだけでなく夢が無くては駄目だ" と言われたことを思い出す。

因みに所期の目的とは何だったかと言えば、「
因果必然の科学的モデル化(Scientific Modelling of "ZEN" Concepts)」という雲をつかむような途方もない話だったのだから、それに比べれば、ノーベル賞を受賞したり、大会社の社長や首相になること、まして "人ひとり得るに過ぎざること" などに感けているわけには行かないという強迫観念に絶えず苛まれていたのも無理はないと思っている。)

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1961.12.22(金) 明日から冬休み

3限は、木村、内田、原、山田、中村らと本館前の芝生で駄弁って過ごした。 4限の終わり頃まで図書館で武藤と向かい合って勉強した。

5限は70円床屋へ行ったが、待っている間にどんどん時間が経ってしまうので全く気が気ではなかった。 いつもなら、丁寧にやってくれると喜ぶところだが、今日ばかりはそれが全く恨めしかった。

7時のバスで帰ったが、中で片所に会った。 帰桐10時半頃、中里さんが来ていた。

(注: 上記の面々のうち、木村以外は全員法学部進学組である。 何しろ文一800人中、約550人が法学部へ行ったのだから、当然と言えば当然の比率であろう。
バスは、八重洲大通り発の桐生行き東武急行バスである。 運賃の安さ・・桐生まで240円・・と中高時代の級友達に出会う機会が多いのが取り柄だった。 片所というのは中学時代の親友で、工務店の跡継ぎ、私大の建築学科に入っていたと思う。
中里さんというのは、"1960.3.21(月)東大合格の第一報" で紹介した、一家の掛かりつけの鍼灸師である。)

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1961.12.18(月) 公私ともにすれ違い続きの一日

九時ごろ登校した。 二、三度27番を覗いてみたが誰も居ないので、てっきり休講と思い、900番前で国際法の終わるのを待っていた。 ところが、後で高橋に聞いたところ、ちゃんと授業をやったそうだった。全く付いていなかったと言うほかない。
・・・・
・・・・
3限の始まる直前、高橋から聞いたとおり、英語研究室へ教科書を取りに行こうとして、図書館の北側を回っていくと、北寮の方から来る彼女に気がついた。 そのまま研究室へ駆け込み二階の窓から見ると、丁度すぐ前に彼女が立っているのが見えた。 永川先生は留守だったので戻ってくると、驚いたことに玄関の所に彼女がこちらを向いて立っていた。 全く足がすくんでしまうような驚きだった。
今にして思えば、あれが彼女としては精一杯の意思表示だったのだろう。
しかし、僕にはどうすることも出来なかった。 勇気がなかったと言うより確信が持てなかったのだ。 唯、彼女がそこに居たというだけでは、とても彼女に声をかける気持ちにはなれなかった。
若し彼のことが無かったら僕も決心したかも知れない。 しかし、ことによったら彼も第一研究室に用があって来ていたかも知れないのだ。 もしそうだとしたら・・・・・
・・・・・
・・・・・
学生センターでは、祈祷、食事、余興と何れも仲々楽しかった。しかし、我々の歌は、どうもお世辞にも良かったとは言えず残念だった。 来年はもう少しましな事をやりたいものだ。 9時頃プレゼント(シャープペンシル)を頂き、遅いのでキャンプファイアーには参加しないで引揚げた。

(注: 9時頃登校したのは、土曜日のことが頭にあったのかもかも知れないが、日記には登校が早すぎて教室に誰も居なかったことしか書いてない。

研究室の入り口に立っていたのは Pである。日記には、"唯、そこに居ただけ" としか書いてないが、実際は、今にも話しかけて来そうな表情だった・・・ あれは私の思いすごしだったのだろうか。

市ヶ谷の学生センターでは、予定通り、独語会話教室のクリスマスパーティーが行われ、いかにも楽しかったように書いてあるが、催し物の出来は惨憺たるもので楽しさ半分、恥ずかしさ半分と言ったところだった。)

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1961.12.28(木) 梨の礫に気もそぞろ

あれからもう 4日にもなるが、何の音沙汰もない。
もし、人違いであったのなら仕方ないが、そうでないとすると一体どうしたことだろう。 あれだけ丁寧に書いたのだから、まさか、彼女の感情を害したとも考えられない。 あるいは、丁度、金子さんの場合のように、どう断ってよいか迷っているのかも知れない・・・
・・・・
実際、何てことをしてしまったのか。 どうかしていたと言うほかはない。

(注: 全くどうかしていたのだろう。 第一、相手の住所氏名からして、こちらの一方的な推定の域を出ないところへ持ってきて、一度も話したことのない私を彼女が特定できたと言う保証もないのに、返書など期待する方がどうかしている。

金子さんの場合と言うのは、以前、彼女から、誰か知らない早大生から来たプロポーズの葉書に、どう返事をすればよいかと相談された時のことだ。 その時は、"呆れた男だ" などと無責任なことを言っておきながら、自分が同じことをやるとは・・・。 あれだけ丁寧な・・・などと言い訳じみたことを書いているが、相手から見れば文面の如何がどうあれ、誰か知らない独りよがりの女々しい男でしかないと言うことが、さっぱり判っていなかったのだから、〇〇は盲目とはよく言ったものだ。

それに比べれば、同じように H宛に出した手紙が梨の礫に終わりショックを受けたらしいが、その後、勇気を出して直接声をかけ、観劇デートの約束にまで漕ぎつけた杉山の方が、ずっと、男らしいと言うべきだった。

追記:2023.7.3
しかし、私や杉山に限らず、当時、何の伝もない異性に声をかけると言うのは、それほど抵抗のある行為だったことは事実だ。)
この恥ずかしい手紙の宛先は、浦和市仲町・・・藤井槙子様だった。


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1961.12.16(土) 早起きは三文の徳

木金と早起きをしたので、その癖がついたか今日も早く目が覚めてしまい、結局、9時頃には学校に着いてしまった。 東大前で降りる時、側に居る女の子が僕の方を見ているのに気が着き。何気なく目をやると何と Wistaria であった。 成る程、彼女らの出勤時間が 9時というのは、尤もなことである。
それにしても、今まで売店の売り子としての彼女しか見ていなかっただけに、今朝の彼女の姿(ハイヒールを履き、ブルーのオーバーを着ていた)は、非常に垢抜けしてして新鮮に見えた。
・・・・・
・・・・・
帰りに杉山と一緒になったが、その話によると、・・・ 今度、二人でシネラマを見に行くことにしたそうである。 ・・・・ 彼にとっても予想外のことであったらしい。 とにかく彼のために喜ぶべきことであろう。

(注: Wistaria を生協の売店以外の場所で見たのは、これが最初で最後である。 私にとって、彼女との出会いは、将に一期一会と言うに相応しいものだった。
杉山の件は、例の Hさんとの観劇デートの約束にまで漕ぎつけたという羨むべくも喜ぶべき経緯である。)

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1961.12.15(金) 独語の追い込み

2限は前からの約束に従って、図書館で独語の読み合わせをやった。

(注: 12日の体育実技もそうだが、駒場での最後の期末試験がボツボツ始まっていたので、独語では有終の美を飾ろうとしたのかどうか? この時の仲間は確か、同じ経済学部志望の大村や高橋らだったように記憶している。)

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1961.12.12(火) 体育の "実技" テスト

体育の実技テストは、グランドコンディションが悪いので、守備は止めてバッティングにすることになった。 全く僥倖であった。 打つ方なら何とかやれる自身はあったが、守備ではもう絶対見込のないところだった。 実際、番が来てみると自分でも予期しなかったほど、コンコンとあたり、全く付いていたと言うほかない。

(注: 語学や専門科目の授業では、休講は日常茶飯事だったが、体育が休講だったと言う記憶はない。 駒場では今でも体育は、真面目にやっているのだろうか。)

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2012年2月16日木曜日

1961.12.11(月) 彼女も Stray Sheep だったのだろうか・・・

・・・3限の始まる直前、2号館の前の掲示板ののところで皆で話していると、彼女がアーケードの所へ来て友達と話していた。 内垣さんの独語に出る皆と別れ、900番へ席をとりに行き戻ってくると、彼女はまだそこに居た。
お茶のみ場の角を曲がった途端、彼女と視線が合ってしまったが、・・・努めて平静を装いながら彼女の前を通ってアーケードヘ入り休講掲示板を見ていると、彼女も入ってきて1~2m の間隔を置いて暫く掲示を見ていた。 あのまま立ち去らずにいたらと悔やまれてならぬ。 しかし、いつまでもそこに居る口実が何もないので仕方なく30番脇を通って11番の横の出口から図書館へいってみた・・・
・・・・
・・・・
全く今日の彼女の行動は解せないが、察する所どうも何かの部に入っているのではないかという気がする。 もしそうならば、"彼" のこともその関係から説明できるのだが・・・・

(注: 彼女とはここでは Pのことである。 彼女の何気ない一挙手一投足を自分に都合良く解釈したい気持ちと、確信が持てない焦りが交錯していた。 要するに自信が持てなかったのだ。)

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1961.12.9(土) こういうのも Stray Sheep と言うのか?・・・優柔不断?、無責任?、卑怯?,・・いや自己憐憫!

・・・ この前、金子さんに会った時、"関口さんをトランプ占いで占って貰ったら、'この人は、3~4年はぶらぶらしている状態が続く' といった・・・" そうだが、この調子では、本当にそうなりかねない。
もう数ヶ月で駒場を去らなければならないのだし、思い切って Pに近づく手を打ってみることにした方が良いのかも知れない。 撥ね付けられたときはそれまでと、きっぱり未練を断てば良いのだし、それに間もなく本郷へ行ってしまう。 だからあまり気まずい惨めな想いをせずにすむだろう。
・・・・・

(注: 中学時代の級友、金子安江さんとは、お互い大学生になってからも、折に触れ会っていたが、彼女自身はどうだったか知らないが、ご両親は "あの二人一体どうする気で居るんだろう" 位のことは考えておられたかも知れない。 じっさい私自身の両親も、口に出したことはないが、そんな節があった。 トランプ占いの件もそれと関係があったかも知れない。 先日、大竹と荻窪駅前で話し合ったことというのも、それと似たようなものだった。

P との関係など、はるかそれ以前の状態だったが、いつまでも宙ぶらりんのままで居たのでは、埒が開かないことは確かだし、それに世間一般の言い方からすれば、学業の妨げになるばかりだったから、そろそろ腹をくくる時期かと思わざるを得なかった。 しかし、文面からは、始めから負け犬の姿勢で逃げ道ばかり探していたことがバレバレである。

こうした消極的姿勢は、3年前に、急性A型大動脈解離で死線をさまよい、奇跡的に生還するまで、ずっと変わらなかった。 しかし、2年前から不思議な巡り合わせで、この"ぶらぶら人生" の一つ一つの寄り道が予想もしなかった繋がりを持っていたことを知るに及んで、改めて、"人間万事塞翁が馬" の古諺を噛みしめている。)

2012年2月14日火曜日

1961.12.7(木) 独語会話に級友を誘う

・・・ 
これが、今日、彼女に関して起こったことの全てだが、冷静に考えても、やはり、彼女は僕に何らかの関心を持っていると言わざるを得ない。 とすると "彼" をどう考えたらよいのか、判らない、全く判らない。・・・・
・・・・・・・
新宿のホームで大村に会い、市ヶ谷まで同乗した。 ついでに学生センターの PR をしておいた。
今日の授業は仲々賑やかで愉快だった。 しかし、クリスマスには、どうしても何かやらなければならないことになり、いささか気の重いことである。 鶴丸さんと牧野さんは、劇に出なければならないことになり、すっかり当惑していた。

(注: 此処で言う彼女とは Pのことである。 Pが最近、特定の男子学生と一緒に居る所をよく見かけるので、あれこれ思案していたのだが、なにも行動せず一人相撲を取っていただけなのだから、判らないのが当然だった。

後半は、小柳に誘われて通うようになった市ヶ谷の学生センターでの独語会話授業の様子である。 鶴丸さん、牧野さんの二人はいつも熱心に出席していた何処かの大学の女子学生だと思うが、今日まですっかり忘れていた。
大村というのは、"1961.11.29(水)気さくな級友" の注欄でも触れたが、一緒に経済学部に進学した級友で総武線で千葉から通っていた。一時は乗り気だった筈だがその後の記憶がない。4月の同窓会で聞いてみようにも、昨年亡くなってしまったので今となっては、それも叶わない。)

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1961.12.6(水) 500万円が当った!?

昼休みの終わり頃、休講掲示板を見ていたら、そばを通り過ぎた女の子が戻ってきて、僕の前に立ち同じく掲示をひとわたり見回してから、20番の前を通って27番の角を曲がって行ったが、気がついてみると Hであった。 僕の前に居る間、全然気がつかなかったのは迂闊だった。 外へ出て見ると、お茶のみ場の前あたりに杉山がいたので、すぐ呼んで・・・・
・・・暫くすると Hが220番の方へ行くのが見えたが・・・・
・・・そのうちに杉山がやって来て、とにかく話をしたと言い、それこそ、欣喜雀躍、手の舞い足の踏む所を知らずといった有様で周囲の人たちを驚かせた。 その喜びようがあまりに凄まじいので、西尾などは500万円が当たったと言う冗談をそのまま本気にしてしまった程である。

(注: 日頃から大言壮語するわりに、見かけによらず純情な杉山が、遂に片思いだった Hと話し合えたと言って報告?に来た時の顛末である。 とにかく大変な騒ぎだった。 西尾は今でも500万円の冗談を本気にしているかも知れない。 4月の同窓会で会ったら聞いてみよう。)

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2012年2月13日月曜日

1961.12.5(火) 超然としていた心算だが・・・

昼休みが終わりに近づいた12時20分頃、900番の前から正面玄関のほうへ回りかけ、ふと向うの芝生を見ると全くぎくりとするような光景が目に入った。 ・・・・・
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
それは、どう見ても一組の恋人同士としか思えなかった。 その瞬間、僕は感じた。 彼女にとって僕などは何の意味も持たぬ無数の青年達の一人でしかないと言うことを、また彼らにとって僕は全く無用であるばかりか、むしろ邪魔者であり、決して彼らの前に姿を現して欲しくない存在だということを。 全てはもう終わりである。・・・・・実に泣きたいような気持ちだった。

Jetzt habe ich es zum ersten Male erkannt, dass ich auch von der Eifersucht nicht frei bin!

(注: いささかオーバーな表現で、いかにも自分が悲恋の主人公であるかのごとく、言葉に酔っている嫌いがあるが、一瞬そんな気持ちに落ち込んだことは確かだ。
それがどんな光景だったかと言えば、芝生にあをむけになって日向ぼっこをしている彼の顔を、横に座った彼女が親しそうに覗き込んで話しかけていたというだけのことに過ぎない。 此処で言う彼女が誰なのかは、あえて言わないことにする。 第一彼らの氏名を知っていたわけでもない。
いずれにしても、50年前の駒場で、このような光景を目にすることは、まず有り得なかったということだ。 日頃、超然派をきどっていた私の正体はこんなものだった。)

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1961.12.3(日) テレパシーの真偽・・その2

朝、金子さんのところへ行こうと思い出かけたところ、駅のところで昨日のテレパシー家が実演をやっていたので、試みに実験台に立った所、詰襟、コート、眼鏡、本・・・と全て的中したのには改めて感心した。・・・・・
・・・・・・・・

(注: 昨日の女性は "さくら" だったかも知れないので、今日は自分が実験台に立った次第、結果は益々信じたくなるような即答振りだった。 しかし、これとても今から思えば、"学生" のキーワード一つで簡単に推測できるものばかりであり、疑えばいくらでも疑えよう。 果たしてこの時のテレパシー家が本物だったか食わせ物だったか今となっては確かめようがないが、私自身は、父が生前、本物の霊能者に出会った事実から、その種の五感を超える認識能力の存在を否定しないと言うより確信している一人である。)

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1961.12.2(土) テレパシーの真偽?

・・・・・・
朝、荻窪駅前でテレパシーの実演をやっていた。 全く見事なもので女の人の買い物籠の中身まで当ててしまうのには少なからず驚嘆した。・・・・・

(注: 私とて "非科学的" な神秘主義者ではないから、件の女性が "さくら" ではないかとか、一応、考えうるトリックの可能性は考えたが、どうしても否定する材料が見つからなかった。 此処20年くらい前から、テレビでいろいろなマジックのからくりを紹介する番組が増えたので、或いは、その手の類だったかも知れないが、それにしても、衆人環視の下であれだけのことをやる能力というのはただ事ではないと思った。)

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1961.11.30(木) 独語会話に誘われる

三語の後で小柳に勧められ、市ヶ谷の学生センターにある独語初歩会話クラスに出ることにした。
先生は、フォン・ライスヴィッツと言う婦人で、なかなか見事な日本語を話す人である。 我々の外には女子学生が3人居ただけだが、他にも2~3人は居るらしい。 小柳の言葉を真に受けてたかをくくっていたらとんでもない。 まったく手も足も出ず、我ながら情けない次第であった。 しかし、何だか大いに楽しくやれそうな気がする。

(注: 小柳というのは、これまでにも何度か触れたが、西武鉄道社長として、自らの良心に従って死を選んだ小柳皓正のことである。 その後、いつ頃まで続けたのか覚えていないが、上達の程はさておき、楽しかったことは確かだ。 役に立ったかと言えば、本郷へ行ってから、学習院高校一年の秀才、鹿園直建君の独語の家庭教師をやった時、多少発音が様になっていたかも知れないということと、後年、富士通時代にドイツ旅行をした時、一日ごとに町の人々の話していることが聞こえてくるようになったことくらいだが・・・)

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2012年2月12日日曜日

1961.11.29(水) 気さくな級友

9時45分頃登校。 井の頭線の中で東に声をかけられた。 降りた時、待ち合わせたらしい女性の方へ行く東と別れ(従妹で東女の人だそうであった。学内を一通り案内してあげたのだそうである)、アーケードに行ってみると経地、憲法共に休講。 まったくはぐらかされたような気持ちだった。

高橋、大村と渋谷で別れて帰りかけたところ、国電改札口の方から来る稲垣に出会い、また引き返すことにした。東大前で降りた時、意外にも Pが前を行くのを見て驚いた。 哲学概論か論理学をとっているらしく 300番の方へ行った。
・・・・
12時半頃、大竹に会い、お茶のみ場で話していると彼女と彼が一緒に弥生通りをアーケードの方へ来るのが見えた。 流石に寂しい気持ちがした。 何だか自分が惨めな気がして、そのまま大竹と一緒に帰ってしまった。


(注: 東には、この時以外にもよく声をかけられた。 とにかく気さくで世話好きな男である。 おそらく何時でも誰にでもそうなのだろう。 後年、農水庁長官になるだけの資質は持っていたと言うことか。

高橋、大村はともに経済学部へ進学した仲間だが、つい最近、文1-6組の同窓会幹事の堺君から大村君が亡くなったと言う報せを貰ったばかりである。 そういえば、確か彼らは経済学部の卒業アルバム編集委員だったはずだ。

お茶のみ場で見た彼女と彼とは誰のことなのか、はっきりしない。 Pや MKさんなら、必ずそう書いていると思うのだが・・・。 今風に言えば、単にパートナーがいないことを僻んだだけかも知れない。)

1961.11.26(日) 母の退院

12時頃病院に行ったが、ガラクタが一杯で始めのうちは、何から手をつけてよいのか見当もつかず、暫し、呆然としてしまった。 そのうち治さんも来て何とか恰好をつけ、皆に見送られて46日ぶりの退院となった。
登美さんのところで暫く休んでから、泰代と二人で少しずつ荷物を分担して帰ることにした。
・・・・

(注: 子宮筋腫の手術で慈恵医大付属病院に入院していた母のフジヱが、無事退院した時の顛末である。 治さん、登美さんというのは、2人とも浅草に住んでいた母の妹達である。 荻窪の多家で一緒にお世話になっていた私と妹の泰代、それに治子叔母の3人で、退院の荷作りをし、登美子叔母のところまで送ってから、一休みして帰ったらしい。 帰った先が桐生の我が家なのか、荻窪の下宿先なのか、誰がどこまで帰ったのかもはっきりしない。)

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1961.11.25(土) 皆、それぞれ悩みを抱えていたらしい。

・・・2限の社会思想史(淡野)は休講だった。
経地が休講だったので10時半頃昼食を済ませたため、大竹らと昼食を付き合うわけにも行かず、一人で先に帰ることにした。 ところが帰っても行く所がないので、渋谷からまた戻り、・・・・・・・ついでに教務で進学願を貰い・・・・・・駅に行ってみると杉山、下田がまだ居たので一緒に渋谷まで行き、下田と別れてから二人で東横を見物した。 2人の金を合わせてやっと250円、キャピトル・インスタントコーヒーを買うのにぎりぎりだった。

別れて国電のホームに立っていたら大竹が来て、これから杉並公会堂へ日フィルの定演を聴きに行く所だと言う。 ところがいざ着いてみると満員御礼でお引き取りくださいと言う。 馬鹿らしいこと夥しい。 一緒に(金は大竹が払った)マーケットの前の喫茶店でシルコを食べながら・・・・いろいろ話し合った。
・・・・・・お互いに、我々年代の男女の交際の難しさを痛感した。

(注: 今と違って?、休講は日常茶飯事だった。 大竹と荻窪駅前で、こんな真面目な話をしたことはすっかり忘れていた。 夫々の話の内容は、ここに書いて差し支えのあるようなことではないが、逆にわざわざ第3者に聞いてもらうような話でもないので割愛する。)

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1960.11.20(月) 法学部志望の級友達と

学校へ着いたのが10時半頃、英吾は始めからサボる心算でプリントを持っていかなかった。
一度、渋谷へ戻って早慶ゼミでも見てこようかと思い道玄坂の方へ行ってみたが、見つからないので諦めて学校へ戻り、散髪をして貰うことにした。

3限の始まる前に、武藤、堀篭、宇田川の3人とお茶のみ場から900番へ行く途中、本館から出て600番の方へ行く P を見た。
4限の始まるまで、900番で "人を殺したものは" の "人" には自分も含まれるのかどうか、とか "条約と憲法の関係は" どうなのか、と言ったような問題について大いに議論した。 なかなか愉快だった。

(注: 前段の早慶ゼミの件はまったく記憶に無く何のことやらさっぱり思い出せない。
後段の3人は、全員法学部進学組で、私のように経済学部進学が決まっていながら、いつも法学部組と行動をともにしていた男は、そんなにいなかったのではないかと思う。 もっとも文科一類800人中、550人くらいが法学部へ行ったのだから、以前からの仲間が4人集まれば、そのうち3人くらいが法学部組だったとして、何の不思議も無かった。 私の場合は、それが4人までそうだっただけのことである。 このとき青臭い議論をしていた一人、堀籠幸男が、後年、最高裁判事になり、政局の急変が無ければ、そのまま長官になるはずだったのだから、まさに今昔の感に堪えない。)

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2012年2月9日木曜日

1961.11.19(日) 駒場祭の帰りに渋谷で森山加代子を見た。

一時頃まで英語の予習をしてから学校へ行ってみた。 見物しているうちに小西と行き会ってしまい、煩く付きまとわれて付き纏われて閉口した。 一人になりたいので、用があるから帰るといえば、じゃ僕も帰るという。・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・
帰りに駅で中村と会い、誘われて一緒に渋谷で遊んだ。 ラッキーボールとか言ったように思う。 終わって出てくると喫茶店の前で少しばかり人だかりがいているので、"何だ、々々" と近づいて見ると、森山加代子が車から出て店に入っていくところだった。
つい何時もの不遜な気持ちが出て、"何あんだ" (つまらない!)と言ってしまったが、ことによると彼女に聞こえたかも知れない。 この位なら返って彼女のためにも悪いことではないとは思うが、そう言ったときの自分の不純な気持ちを恥ずかしく思う。
新宿でまたロケットボールをやってから引揚げた。

(前半は、駒場祭を一人で見物していたら、世話好きと言うより、関東人の僕からするとおせっかいな加古川出身の小西に捕まってしまって閉口した話。 その彼と、その後生涯を通しての親友になるのだから、人間万事塞翁が馬、スティーブ・ジョブズのスタンフォード・スピーチではないが人生何事もあとで振り返って見なければ分からないものだ。
後半、渋谷での一件は、当時、坂本九の相手役としてテレビで売り出し中だった森山加代子を目撃した時の正直な気持ちである。 実際には私はテレビで見る彼女に対してファンとまでは行かないが、好感を持っていたのだが、こういうのを僻み根性と言うのだろう。・・・ )

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1961.11.17(金) 東京文化会館大ホールでの演奏会

杉山と一緒に、伊藤屋で昼食を済ませ・・・・
一緒に60円也で "OK牧場の決闘" を見て別れた。
・・・・・
病院では、・・・・・ ともかく上野まで行き、駅の近くで夕食を摂ってから、殆ど6時きっかりに文化会館に着いた。 なるほど、聞きしに勝る大きな建物であった。
前から3列目に席を採ったので細かい手の動きまで良く見えて面白かった。
卓さんは、一度出てくるところを見たが、演奏中は、前の奏者の陰になってしまってよく見えなかった。

(注: 前半は、学校での時間つぶしの顛末、後半は、慈恵医大付属病院の看護婦だった八重子叔母の職場結婚の相手、山田卓が所属していたアマチュアオーケストラ・・東京市民交響楽団?・・の "定期演奏会" が東京文化会館で開かれた時の様子である。 実際にはお粗末な演奏だったのかも知れないが、オーケストラの生演奏を聴くのは、小学校時代に学校の講堂で群馬交饗楽団の巡回公演を聞いて以来、初めての経験だったので、ホールの音響効果の所為か、驚くほど柔らかく広がりのある音の迫力に一驚したことを思い出す。 因みに卓叔父のパートは第2バイオリンの後ろの方だった。)

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2012年2月7日火曜日

1961.11.15(水) 西荻の繋ぐ縁

620番に席を取ってからお茶でも飲もうと思って出てくると、900番から出てきた武藤と一緒になった。 試験事務所脇(先日、成績表交付の日と殆ど同じ所に)P が立っていたが、我々を見ると(と言っては、少し主観的過ぎるかも知れないが)くるりと踝を返して弥生通りを北寮の北へ駆けるようにして行ってしまった。
アーケードの時間表の所で話しているうち、ふと気が付いて前を見ると、H が(らしいと言った方が正確かも知れない)ネッカチーフを被って時間表を見ていたのには驚いた。 髪がずっと短くなった上、服装が大分変わっていたので、目近に見ながらなかなか identify できなかった。・・・・・ 昼休みに杉山に会い、その話をしたらしきりに気にして・・・・・・しまいには "実地検証" に及ぶ始末だった。、

五時ごろまで図書館で勉強し、寮食で食事を済ませてから金子さんの所へ行ってみると学校の友達が一人来ていて一寸気が引けたが、折角やって来たのだしと、少々図々しくお邪魔させていただくことにした。 8時頃までフランス語の相談に乗って貰い、その友達と一緒に退出した。 西荻窪の人で、小学校では、井上さんの所の明子さんと同級だったそうである。 まったく奇縁と言うしかない。

(注: 前半は相変わらず P や H の消息が続くが、とくにこの頃になると H の髪型や服装が日によってガラリと変わることがあり、時々見間違えることが多かった。

後半は、桐生市立西中学校時代の同級生で、東京での学生時代を通じても、気の置けない友人として時々会っていた金子安江さんの下宿先を訪ねたときの経緯である。

このブログにも既に何度か登場しているので 詳しい説明は割愛するが、このとき会った友達が "1960.5.11(水)中学時代の級友" で紹介した鴨下さん、また鴨下さんの小学校時代の同級生と言うのは、"1960.1.2(土) 新しい下宿先" で紹介した井上喜一郎ご夫妻の2番目の娘さんである。

今日の今日まで道子さんだったとばかり思っていたが、日記には、はっきり明子さんと書いてあった。 謹んで訂正させていただきます。)

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1961.11.13(月) 宇野弘蔵の講演

憲法が休講になったので、2時から600番で 宇野弘蔵氏の講演を聞いた。
流石に重厚かつ温厚な風格であったが、別に驚くほどのこともなかった。 まあ、可も無く不可も無しと言った所である。

(注: マル経を志す者にとっては、仰ぎ見る存在だったかも知れないが、私にとっては只の有名人を直接見たと言った程度の印象しか残っていない。 以前、矢内原元総長の講演を聴いたときと同じで、話の内容には全く記憶がないが、それぞれ現役の教授たちとは一格違う風格を感じたことは確かだ。 今風に言えば一家をなした人たちの持つ独特のオーラとでも言おうか。)

1961.11.12(日) ヰタセクスアリス?

正午まで英語の予習してから学校へいてみたが、つまらないので病院へ回ることにした。
大盛堂前のバス停で待っていると、前からそこに居た30代と覚しき婦人(あまり感じよくなかった)が、"ここから八重洲口行きが出ますか・・" と問いかけてきた。 "ええ" 暫くして "此処から出るのは、皆八重洲口行きじゃないですか" と答えると、急に "一寸付き合わない?" と誘いかけてきたのには驚いた。
しかし、それにもましてショックだったのは、それに対して僕が無視できない誘惑を感じたことであり、それをきっぱりと(丁度 P がいつか山手線の中で見せたような態度で)断れず、・・・・・ 未練がましく即答を避けたことである。 幸い、脈なしと見て向うで諦めて行ってしまったから良いようなものの、あのまま付いて行ったらどんな事になったかと思うとぞっとする。
・・・・・・
あれやこれや考え合わせると、最近の僕は何か不安定で、いつ誘惑に負けるかも知れない危険に曝されているような気がする。
・・・・・・
ともかくしっかりしよう。

(注: 小・中学校時代の級友の中には、いわゆる赤線地帯で育ち、店の "お姉さん" 達に "可愛がられ" ながら育った者もいるから、別にその手のことに無知だったわけではない。 しかし、体験と言う意味ではまったく晩熟というか、引っ込み思案だった。
病院とは母が子宮筋腫の手術で入院していた慈恵医大付属病院のことである。)